逆さまの空の向こう側
「僕とエリカで君の身辺を調べたときにも、そんな過去は出てこなかった。意図的に隠されたんだろうね」
ソラは悔しそうに言った。
ジャスミーヌは、エリカ王妃が自分の身辺を調べていたこと自体には驚かなかった。
むしろエリカが何も調べていなかったら、あの二人は調査する手間すら惜しんで、自分をこっそり始末するつもりなのではないかと心配になったかもしれない。
「何しろ、王家自身が引き起こした醜聞ですから。それに私は第三王子の婚約者でした。王家としては、あらゆる手を使って痕跡を消したかったのでしょう」
「僕たちは知っているべきだった」
ソラは、ただそれだけを言った。
声を荒らげたわけでもない。
それなのに、なぜだろう。ジャスミーヌはふと、目の前にいる男が、自分のよく知る敬虔で穏やかな使徒とはまるで別人のように思えた。
その感覚は、ほんの一瞬だった。
けれどジャスミーヌは、エリカ王妃が、この男をそばに置けば無数の疑念を招くと知りながら、それでも決して手放そうとしなかった理由が、少しだけわかったような気がした。
次の瞬間、ソラはまた笑った。
先ほどまでの異様な気配も、それとともに消えていた。
「それで、その出来事はどこで起きたの?」
ジャスミーヌは口を開きかけたが、すぐには答えなかった。
「その前に、もう一度確認させてください」
「うん?」
「あなたは『古い夕陽』を作った人が誰なのか、知っているんですよね?」
「厳密に言えば、僕は彼と面識があるわけじゃない」
ソラは少し考えてから、付け加えた。
「でも、誰なのかは知っている。この歌がいつこの世界に現れて、どうやって広まっていったのかもね」
「つまり、私があのときのことを話せば、あなたも知っていることを教えてくれるんですね?」
ソラは笑った。
「もちろん」
そこでようやく、ジャスミーヌは頷いた。
嘘をついているようには見えなかった。
「記憶はかなり曖昧なんですけど……あの頃、王家の方々がルビー港へ休暇に来ていたんだと思います。たしか王配殿下のご実家が、あの辺りに別荘を持っていたとか。父と王配殿下は学生時代から親しい友人でしたし、ちょうど私と第三王子の婚約が決まったばかりだったので、私たち家族も同行したんです」
幼い頃の出来事を、細部まで鮮明に覚えている人はそう多くない。
ジャスミーヌも同じだった。
どれほど思い出そうとしても、あの頃の記憶はもう、ところどころ霞んでいる。
たしかあの日、大人たちは大勢の護衛を連れて観光に出かけていた。
別荘に残されたのはジャスミーヌと第三王子だけで、二人は使用人たちに遊び相手をしてもらっていた。
誰かが、裏庭の先にとても綺麗な小川があると教えてくれた。
あの小川のことだけは、今でもよく覚えている。
水は、そこに何もないかのように澄みきっていた。
覗き込めば、石のそばを泳ぐ小魚も、隙間へ潜り込む蟹も、流れに合わせてゆっくり揺れる細い水草も、すべてはっきりと見えた。
幼いジャスミーヌは岸辺にしゃがみ込み、すっかり夢中になっていた。
少し先の曲がり角には、他よりも深くなった場所があった。
そこには空と白い雲、岸辺で揺れる木々の影が映り込み、まるでもう一つの空が逆さまになって広がっているようだった。
ジャスミーヌは、その水面に映った空を長いあいだ見つめていた。
―この向こうには、本当に別の世界があるのかもしれない。
そこには、もう一人のジャスミーヌがいるのだろうか。
祖母が昔、読んでくれた絵本のように。
そんなことを、幼い彼女は無邪気に考えていた。
一方、第三王子はすぐに飽きてしまった。
足元の小石を何度か蹴ったあと、退屈だと騒ぎ出し、屋敷に戻ってお菓子を食べたい、昨日遊びかけだった玩具を持ってこい、と使用人たちに大声で命じ始めた。
それが起きたのは、まさにそのときだった。
全身を黒い服で覆った男たちが何人も飛び込んできて、大声で怒鳴った。
なぜなのかはわからない。
けれどジャスミーヌは、自分がそのとき少しも怖いと思わなかったことだけは、妙にはっきり覚えている。
第三王子のほうは、完全に怯えてしまったらしい。
大声で泣き出し、乳母や子守を呼んで喚き始めた。
甲高い子供の泣き声が耳に突き刺さり、ジャスミーヌは耳が痛いとさえ思った。
ところが、その様子を見た黒衣の男たちは、揃って呆気に取られた。
第三王子がここまで泣き出すとは、想定していなかったらしい。
一人が何かを小声で呟き、もう一人が第三王子を振り返る。
大人たちは互いに目配せをした。
まるで、あらかじめ決められていた何かを確認するかのように。
そして―全員の視線が、ジャスミーヌへ向いた。
次の瞬間、そのうち二人が彼女に駆け寄った。
片方の手が肩を掴み、もう片方が腕を押さえ込む。
幼いジャスミーヌは抵抗する暇さえなく、あっさりと地面から抱き上げられた。
その拍子に、腕の中から何かが落ちた。
大好きだった猫のぬいぐるみだった。
母がジャスミーヌのために特別に注文してくれた、薄紫色の小さな猫。
毛並みはとても柔らかく、中にはふかふかの綿がたっぷり詰められていた。
ジャスミーヌは毎晩それを抱いて眠り、出かけるときにも絶対に連れていくと言って聞かなかった。
猫のぬいぐるみは、岸辺の柔らかな泥の中へ落ちた。
黒い泥水が跳ね、薄紫色の毛並みの半分をたちまち汚していく。
ぬいぐるみは横倒しになったまま、紫色の糸で縫われた二つの目で、変わらずジャスミーヌを見つめていた。
ジャスミーヌは、それを二秒ほど見つめていた。
そして、そのときになってようやく―
何かがおかしいのだと気づいた。
彼女は叫び声を上げた。
「それで、そのあとは?」
ソラが尋ねた。
ジャスミーヌが続きを話そうとしたところで、彼はもう一言付け加えた。
「……あの猫は、見つかった?」
「え?」
「薄紫色の、猫のぬいぐるみ」
そこでようやく、自分の質問が唐突だったことに気づいたらしい。
「昔、ティムも大事にしていた玩具をなくしたことがあってね。ずいぶん長いこと落ち込んでいたから、ちょっと気になって」
ジャスミーヌはかすかに笑った。
ソラの予想は、確かに当たっていた。
「いいえ……結局、二度と見つかりませんでした。家に戻ってからも私がずっとあの猫を探していたので、祖父が新しいぬいぐるみを自分で選んでくれたんです」
「それも猫?」
「いいえ。犬です」
ジャスミーヌは、今も大切にしまってあり、リタール王国にまで持ってきたそのぬいぐるみを思い浮かべた。
「金色の毛に、青い目をした犬でした。とても綺麗に作られていて、私もすごく気に入っています」
ジャスミーヌは、そこで少しだけ言葉を止めた。
「でも、どれだけ好きになっても――あの猫にはならないんです」




