水に砕けた空
ジャスミーヌは悲鳴を上げた。
第三王子のように乳母を呼んで泣きじゃくることも、黒ずくめの男たちに助けを乞うこともしなかった。
ただ、必死に暴れた。
大公夫妻は幼い頃から、危険な目に遭ったときには決して大人しく言うことを聞いてはいけないと、何度も彼女に言い聞かせていた。
かつて一族に起きた悲劇を二度と繰り返したくなかったのかもしれない。
二人が孫娘に教えたのは、「危険なときには逆らわず従いなさい」ではなかった。
―抵抗しなさい。
それだけだった。
アルジー伯爵は、娘のあまりに気の強い性格は王子妃にふさわしくないと考え、何度も彼女を「矯正」しようとしたが、結局うまくはいかなかった。
祖父母は彼女を怖がらせるために、誘拐された女の子がどれほど恐ろしい目に遭うかまで話して聞かせたことがある。
花に変えられてしまうかもしれない。動物にされるかもしれない。それどころか、奴隷として売られてしまうかもしれない、と。
おそらく二人は、使用人のそばを勝手に離れたり、知らない人についていったりしてはいけないと教えたかっただけなのだろう。
けれど、その教えは思いもよらない形で役に立った。
ジャスミーヌは、自分をつかんでいる男の腕に思いっきり噛みついた。
蹴って、殴って、噛みついて。
幼い身体でできることをすべて使って、黒ずくめの男たちを必死に困らせた。
今になって思い返せば、彼らはどう考えても本物の誘拐犯らしくなかった。
あまりにも狼狽えやすかったのだ。
相手はただの幼い少女だというのに、成人した男が何人も揃って取り乱し、不安そうに顔を見合わせていた。
まるで、目の前で起きていることが何もかも、最初から用意されていた筋書きから外れてしまったかのように。
そのとき、ジャスミーヌをつかんでいた手が突然離れた。
身体が後ろへ傾く。
その瞬間、彼女はもう一度、水面に映った空を見た。
白い雲。
木々の影。
風に揺られて、わずかに波打つもう一つの世界。
それらが一斉に、彼女へ向かって迫ってきた。
そしてジャスミーヌは、その空の中へ落ちた。
川の流れは、瞬く間に彼女を岸から引き離した。
次第に霞んでいく視界の中で、ジャスミーヌは今になって思えばあまりにも馬鹿げた光景を目にしていた。
黒ずくめの男たちと、別荘の使用人たちが一緒に並んでいたのだ。
誰も「誘拐犯」を追いかけようとはしなかった。
誰も彼らを取り押さえようともしなかった。
ただ呆然と、流されていくジャスミーヌを見つめていた。
まるで、この瞬間になってようやく、すべてが取り返しのつかない事態になったと気づいたかのように。
冷たい水が、一気に鼻と口へ流れ込んだ。
ジャスミーヌは必死に手を伸ばしたが、何もつかめない。
岸辺の人影はみるみる遠ざかり、悲鳴さえも激しい水音に呑み込まれていった。
最後に見えたのは、水の流れに砕かれていく空だった。
そこで、彼女の記憶は途切れている。
「……ずいぶん予想外の展開だね」
ソラはカップを手にしたまま、何とも言えない表情を浮かべていた。
二人は果てなき部族を発つ前にジュリアが持たせてくれた飲み物と菓子を取り出し、テーブルを挟んでそれを口にしながら話を続けていた。
「さすがに最初の計画には、『君が川に落ちてそのまま流される』なんて予定はなかっただろうね」
「たぶんなかったと思います」
「私もそう思う。何しろ、当時の私の年齢と、あの川の流れの速さを考えれば……あそこで死ななかったこと自体、奇跡みたいなものですから」
ソラはすぐには答えなかった。
なぜか数秒ほど、手元の茶をじっと見つめている。
「……そうだね」
やがて、静かに答えた。
「本当に、運がよかった」
ジャスミーヌが目を覚ますと、清潔なベッドの上に寝かされていた。
柔らかなマットレス。
布団もシーツも清潔で、日に干したばかりのような匂いがした。
全身が痛かった。
肘や膝には怪我をしていたらしく、厚く包帯が巻かれている。
身体を動かそうとしても、痛みがひどくて思うようにならなかった。
それに頭もぼんやりしていた。
まるで、まだ夢の中に沈んでいるようだった。
女の声が聞こえた。
少し低く、落ち着いていて、不思議と安心する声。
以前、母と一緒に行った演奏会で耳にしたチェロの音色を、幼いジャスミーヌは思い出した。
けれど、その穏やかさの奥には、相手に有無を言わせない力があった。
人に命令することに慣れている者の声だった。
女は部屋にいる誰かに、何かを指示しているらしい。
「この子、もう目を覚ました?」
女が尋ねた。
「そろそろだと思うよ」
若い男の声が答えた。
その声には、女のような、人に命令することに慣れた響きはなかった。
「着ていた服を見る限り、たぶん貴族の娘だと思う」
男はそう推測した。
男の緊張とは対照的に、女のほうはずいぶん呑気だった。
「とりあえず知らせを流しておきましょう。探している人がいるなら、噂を辿ってここまで来るはずよ」
「君、ずいぶん呑気だね……」
「心配することなんてないでしょう? 本当に誰も迎えに来なかったら、私たちでこの子を引き取ればいいじゃない!」
「いや、それは駄目だろう?」
「私、ずっと娘が欲しかったのよ。そうすれば、私たちの子にもお姉ちゃんができるでしょう? 素敵じゃない?」
ジャスミーヌはゆっくりと顔を動かし、女のぼんやりとした姿を見た。
深い茶色―ほとんど黒にも見える長い髪。
簡素な椅子に腰掛けているだけなのに、その姿はまるで玉座に座っているかのようだった。
そこまで話したところで、ジャスミーヌはふと気づいた。
ソラの表情が、妙におかしい。
「どうしました?」
「……いや、何でもない。続きを聞かせて」
ジャスミーヌは訝しげに彼を見たが、それでも話を続けた。
幼いジャスミーヌにとっては、顔を少し動かしただけでもひどく疲れた。
半分眠りに落ちながら、あの若い男がベッドのそばに座る気配を感じた。
そして、彼は歌い始めた。
不思議なものだった。
あの日の出来事は、その後ほとんど曖昧になってしまったというのに。
あの歌だけは、ずっと忘れなかった。
そっと眠って、私の愛しい子。
そっと眠って、私の愛しい人。
私はきっと、さまよいながら、懐かしい故郷へ帰る。
あの青い空が、私を待っている。
歌声にあやされるように、ジャスミーヌはすぐにまた眠りに落ちた。
次に目を覚ましたとき、彼女はもう見慣れた自分のベッドに寝ていた。
母がベッドのそばに座って泣いていた。
兄はその隣で目をこすっている。
祖母は母の後ろに立ち、その肩に手を置いて慰めていた。
祖父だけは部屋の少し離れた場所に立ち、悲しげな目で彼女たちを見つめていた。
ジャスミーヌはぼんやりと部屋を見回した。
父の姿だけが、どこにもなかった。
その日から、ジャスミーヌは祖父母――大公家の屋敷で暮らすことになった。
そこから王宮へ通い、王子妃になるための教育を受けるようになった。
しばらく経ってから、ジャスミーヌは事件の裏側を知った。
王室と別荘にいた者たちは、ジャスミーヌが行方不明になったことを隠し、自分たちだけで彼女を捜そうとしていたらしい。
けれど母が異変に気づいた。
そして、ルビー港に多くの伝手を持つ自分の両親――ジャスミーヌの祖父母に助けを求め、娘を捜してもらったのだ。
もっと後になってから、ジャスミーヌはもう一つの事実を知った。
彼女を捜すため、祖母は以前から決まっていた予定を一つ取りやめていた。
本来ならあの数日のうちに、エメラルド魔法学院へ赴き、全身の詳しい医療魔法検査を受けるはずだった。
その検査は、三か月延期された。
三か月後。
祖母の脳に、腫瘍が見つかった。
翌年、祖母は亡くなった。
もし三か月早く見つかっていたら、結果は違っていたのか。
その答えを、誰もジャスミーヌに教えてはくれなかった。
彼女も、一度も尋ねたことはない。
それでも―
あの三か月のことだけは、ずっと忘れられない。




