花を遺して夜は明ける
ソラは、その髪留めをそっとジャスミーヌの掌に置いた。
ぼんやりとした意識の中で、ジャスミーヌはふとソラの左手に目を留めた。
その小指には、乳白色の指輪が嵌められている。
—これが、あの指輪なんだ……。
そう思いながら、ジャスミーヌは視線を落とし、掌の髪留めを見つめた。
ゆっくりと指を閉じ、それを掌の中へ強く握りしめる。
ひんやりとしていた髪留めは、やがて彼女の体温を帯びていった。
そのとき、不意に何か温かいものがジャスミーヌの頬を伝った。
雨……?
不思議に思って空を見上げる。
夜空は先ほどまでと変わらず静かだった。月も星々も穏やかな光を放ち、雨が降る気配などどこにもない。
また一滴、頬を伝った。
ジャスミーヌは数秒のあいだ呆然としてから、ようやく気づいた。
自分が泣いているのだ。
もうずいぶん長いこと、泣いていなかった。
まだ幼い頃、ジャスミーヌは第三王子との婚約を理由に、王子妃となるための教育を受け始めた。
真珠王国にかつて存在した古い母系の伝統は、とうの昔に衰えていた。
それでも、その残酷な名残のいくつかは、王家の女性に施される教育の中に残されていた。
長剣と短剣の扱いを教えられ、必要とあらば夫と子供を守ることを求められた。
そして、どうしても尊厳を守れぬ状況に追い込まれたとき、自ら命を絶つ方法まで教え込まれた。
異国の歴史、言語、礼法にも精通していなければならない。
第三王子が外国の賓客と面会するとき、彼が知らないことがあれば、いつでも傍らから正しい知識を補えるように。
そして何よりも大切なのは、自分の表情を完璧に制御することだった。
第三王子が泣けば、慰める。
第三王子が怒れば、宥める。
第三王子が笑えば、自分がどんな笑みを浮かべるべきなのかを考える。
ジャスミーヌは、あまりにも長いあいだ、泣くことを許されてこなかった。
父があの騒動に巻き込まれ、洪水の中で命を落としたときも、泣かなかった。
第三王子との婚約を破棄されたときも、泣かなかった。
吐き気を催すような臭いの立ちこめるあの屋敷で、ようやくセリーナとほかの少女たちを見つけたときも、泣かなかった。
学園へ戻り、ジェンナ王女の引き起こした騒動に巻き込まれ、学園を去らざるを得なくなった少女たちを目にしたときも、やはり泣かなかった。
けれど今になってようやく、ジャスミーヌは理解した。
セリーナは、もう二度と戻ってこない。
この二年間、どれほど絶望的な状況になっても、羊の花がどれほどの速さでセリーナの身体を侵していっても、ジャスミーヌは泣かなかった。
自分が何でもないように笑っていられるうちは。
セリーナに「きっと何とかなる」と言い続けていられるうちは。
まだ、本当の終わりではない。
そんな気がしていた。
自分さえ認めなければ、セリーナは本当にいなくなったりしない。
まるで、そんなふうに思い込んでいたかのように。
けれど、セリーナは本当に行ってしまった。
残ったのは、たったひとつの髪留めだけ。
その瞬間、セリーナと過ごした長い年月の記憶が、一斉にジャスミーヌの脳裏へ押し寄せた。
二人で初めて編み物を習った、あの午後。
一日中かかって出来上がったのは、どこからどう見ても不格好な、歪んだマフラー一本だけだった。
その後、糸に魔法を編み込む技術を先に身につけたのはセリーナだった。
それが嬉しくて仕方がなかったのか、彼女は何日ものあいだ上機嫌だった。
けれど、エルンストが「そんなものに何の意味がある」と文句を言い始めてから、セリーナは少しずつ、それらに触れなくなっていった。
ほかにも、まだたくさんあった。
たくさんありすぎて、とても一度には思い出せない。
ほんの数分前まで、セリーナは言っていたのだ。
もっとジャスミーヌに、たくさんのドレスを作ってあげればよかった、と……。
その瞬間、ジャスミーヌはもう耐えられなくなった。
声を上げて泣いた。
アンナたちが慌てて駆け寄ってくる。
抱きしめる者もいれば、背中を優しく叩く者もいた。
「もう大丈夫よ」
「全部、終わったから」
「あなたたちは、ちゃんとやり遂げたのよ」
けれど、慰められれば慰められるほど、ジャスミーヌの泣き声は大きくなっていった。
こんなふうに泣くことを許されるのは、あまりにも久しぶりだった。
「無理に泣き止ませなくていいわ」
ジュリアが歩み寄ってきた。
泣かないで、とも言わなかった。
もうすべて終わったのだから、と慰めることもしなかった。
ただ腕を伸ばし、ジャスミーヌの身体をそっと胸元へ抱き寄せた。
「泣いていいのよ」
そう言って、ジャスミーヌの髪を優しく撫でる。
「泣きたいだけ泣けばいい……私も、その気持ちはわかるから」
ジュリアの胸に顔を埋めながら、ジャスミーヌはふと、彼女の胸元に留められたブローチに気づいた。
花でいっぱいの華やかなドレスには、どこか不釣り合いな意匠だった。
厳めしい灰白色の格子模様を背景に、一羽の小さな黒い鳥が描かれている。
初めて会ったときから、ジュリアはずっとそのブローチを身につけていた。
以前のジャスミーヌは、それが何を意味するのか考えたことさえなかった。
けれど今は、突然わかった。
ジャスミーヌは何も訊かなかった。
ジュリアも、何も説明しなかった。
ただ彼女の胸に顔を埋めたまま、ジャスミーヌは長いあいだ泣き続けた。
周囲の者たちも何も言わず、辛抱強く待っていた。
アンナやほかの若い娘たちは、ジュリアとジャスミーヌを囲むようにそばに残った。
誰も急かさなかった。
もう「しっかりして」などという言葉をかける者もいなかった。
魔法灯だけが夜風の中で静かに光を灯し、まるで彼女たちを見守っているかのようだった。
やがて東の空に最初の灰白色が滲み始めた頃、人々はようやく再び歩き始めた。
魔法の灯が、一つ、また一つと消されていく。
ジャスミーヌはセリーナが遺した髪留めを強く握りしめ、ソラと果てなき部族の人々のあとに続いて、ゆっくりと黒い岩礁を下りていった。
婚儀の長い夜が、ようやく終わった。




