花となって空へ還る
「行こうか」
レインがセリーナに声をかけた。
セリーナは一瞬ためらったあと、突然くるりと振り返り、ジャスミーヌに飛びつくようにして抱きしめた。
その腕には力がこもっていた。
もっと強く抱きしめれば、このままずっとジャスミーヌのそばにいられるとでもいうように。
ジャスミーヌも彼女を抱き返し、なだめるように優しく背中を撫でた。
数秒が過ぎて、ようやくセリーナは腕をほどいた。
そして顔を上げ、親友を見つめる。
その瞬間、それまで彼女の顔にあった余裕はすべて消えていた。
まるで道に迷い、これからどこへ行けばいいのかわからなくなった幼い少女に戻ってしまったかのようだった。
「ねえ。ジャスミーヌがエイデンと結婚するとき、このドレスは着ないでくれる?」
ジャスミーヌは一瞬、きょとんとした。
危うく笑いそうになった。
「もちろん。帰ったら、特別な場所に大切にしまっておくわ。将来の夫が、私に黙ってこれに触ったりしたら、思いっきり蹴飛ばしてやる」
セリーナは笑った。
その笑顔とともに、迷子の子供のようだった表情もようやく消えていった。
彼女は最後にもう一度ジャスミーヌを見てから、レインへと向き直った。
今度は、セリーナのほうから口を開いた。
「行きましょう」
レインが手を差し出す。
セリーナはその手を数秒見つめてから、そっと自分の手を重ねた。
「さようなら」
声が聞こえた瞬間、ジャスミーヌには、それがセリーナの声だったのか、レインの声だったのかわからなかった。
もしかすると、二人が同時に告げたのかもしれない。
次の瞬間。
二人の姿が、崩れ始めた。
レインの身体は一気に弾け、眩い黄金の光へと変わった。
あまりにも鮮烈な輝きに、空に浮かぶ淡い月明かりさえ、一瞬のうちに霞んでしまう。
黄金の光は奔流のように噴き上がり、激しい川の流れのような勢いで、一直線に空へと駆け上がっていった。
その軌跡に沿って、闇に沈んでいたものすべてが照らし出されていく。
金色の雷光が虚空を駆け抜けた一瞬、人の目には本来映るはずのないものまでもが、その光に晒された。
雲霧の向こう。
星々の狭間。
そこには、全貌を捉えることさえできないほど巨大な何かが、ゆっくりと蠢いているように見えた。
ジャスミーヌは興味深そうに一度だけそちらを見た。
怖いとは思わなかった。
けれど、もっとよく見たいとも思わなかった。
一方、セリーナの身体は、まるで一輪の花がゆっくりと開いていくように崩れていった。
爪先から少しずつ、その身体がほどけていく。
ほどけた場所から、一輪、また一輪と、淡い桃紫色の小さな花が咲いた。
花が次々と開き、見えない風に乗って離れていくたびに、セリーナの身体から人としての輪郭が失われていく。
やがて残ったのは、彼女の顔だけだった。
セリーナは最後まで、ジャスミーヌを見つめて微笑んでいた。
そして最後に残ったその瞳さえも、花へと変わった。
小さな花弁が一枚、また一枚と花から離れ、さらに細かく砕けていく。
無数の花弁は、先を行く黄金の雷光を追うように高みへと昇っていった。
その途中でさらに細かく崩れ、やがて淡い色の粉塵となる。
最後には、黄金の雷も、桃紫色の花々も、すべて暗い空の彼方へと消えていった。
ジャスミーヌが我に返ったとき、彼女はすでに地上へ戻っていた。
セリーナはいない。
レインもいない。
二人を乗せていたあの巨大な掌さえ、初めからそこには存在しなかったかのように消えていた。
ジャスミーヌは空を見上げた。
月が出ていた。
その周囲には無数の星が散らばり、暗い雲と霧の向こうでも、変わらず瞬いている。
透き通るような月光が海面に降り注ぎ、夜の闇の中でも、寄せては返す波の動きが見えた。
世界は、こんなにも美しかった。
そして、こんなにもいつも通りだった。
まるで、つい先ほどまでの出来事など何ひとつなかったかのように。
まるでこの世界は、誰か一人がいなくなったくらいでは、一瞬たりとも立ち止まってはくれないのだと告げるように。
ジャスミーヌは紫色のショールを強く握りしめた。
手首を飾る黄金の装飾が肌に触れる、冷たい感触に意識を向ける。
そうすることで、左胸の奥から込み上げてくる痛みを、どうにか押し隠した。
「ジャスミーヌ?」
呼びかけられ、ジャスミーヌは振り返った。
そこにはソラと三人の巫女、それに果てなき部族の人々がいた。
そこでようやく気づく。
自分は今も、あの巨大な黒い岩礁の上に立っているのだと。
「成功したんだね」
ソラが短く告げた。
カロリンも前へ進み出す。
皺に覆われたその手は、杖をしっかりと握っていた。
「忘れがたい婚儀だったよ。遥か彼方の島国に再び降り注いだ雨の音も、砕かれた骨を抱えた者たちが上げた最後の呻きも――私たちには、確かに聞こえた」
アンナと、先ほどジャスミーヌの支度を手伝った若い女性たちも歩み寄り、気遣うように彼女の周りを囲んだ。
「セリーナは、もう行ってしまったの?」
そう尋ねられ、ジャスミーヌはただ頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
明らかに疲れ切った彼女の様子に気づき、アンナもそれ以上は尋ねなかった。
他の娘たちに声をかけ、皆でジャスミーヌを包むように寄り添いながら、岸へ向かって歩き始める。
カロリンの指示で、人々も岩礁を離れる準備を始めた。
すでに夜も深く、足元は見えにくい。
果てなき部族の者たちは魔法灯を灯し、岸へと続く道が安全であることを確かめながら進んでいった。
そのとき。
ソラの視線が、ふとジャスミーヌの頭上で止まった。
「ちょっと待って」
彼は進む方向を変え、ジャスミーヌのほうへ歩いてくる。
人々が左右へ退き、道を空けた。
ソラはそのまま、ジャスミーヌの目の前までやってきた。
「どうしたんですか?」
ジャスミーヌは、どうにか声を絞り出した。
もうあまりにも疲れていて、礼儀を取り繕うだけの余力すら残っていなかった。
ソラは答えなかった。
ただ、今も彼女の頭に載っている花冠をそっとずらし、その下から何かを取り出した。
「気づいてなかった?」
「何に?」
ソラは答えず、ただ掌を彼女の前へ差し出した。
その掌の上に、一つの髪飾りがあった。
セリーナが最後に咲かせたものと同じ、淡い桃紫色の小さな花があしらわれている。
その素材は琥珀のようにも、翡翠のようにも見えた。
けれど、ジャスミーヌにはそれが何でできているのか、どうしてもわからなかった。
花の中心には、透き通るような乳白色の丸い珠が一粒、嵌め込まれていた。
真珠によく似ていた。
けれどそれは、ジャスミーヌがこれまで目にしてきたどんな真珠よりも―
柔らかな光を湛え、澄みきっていた。




