数十年越しの死結を断つ
ディマン王国の英雄にして、自らの命と引き換えに魔物の王を封印した雷の勇者が、実はとっくに豊穣の女神へと改宗していた?
しかも、自分はソラの最初の信徒だとまで言っていた。
……ソラはいったい、この人に何をしたのだろう。
ジャスミーヌは、ここ半年で経験したこと、知ったことのほうが、それまで十数年かけて理解してきた世界よりも、よほど多いような気がしていた。
「こういう見送りはね、普通なら生前に縁の深かった人が迎えに来るものなんだ」
レインが説明した。
「本当なら『涙の聖女』が君を迎えに来るはずだったんだけど。今は奥さんに会いに行くので忙しいし、呪いが解けたあとの後始末もしなくちゃならないからね」
「その奥様は、まだ生きていらっしゃるんですか?」
ジャスミーヌは驚いて尋ねた。
祖父からケイトの話は何度も聞かされていた。
ケイトは学園で出会った男爵令嬢と恋に落ち、二人は数年間、幸せに暮らしていたという。
やがてその男爵令嬢は、人々から恐れられる『砕骨の未亡人』となり、真珠王国を去った。その後の消息は、誰も知らない。
「うん。君もそのうち会うことになると思うよ」
レインは笑って答えた。
ジャスミーヌは二秒ほど黙り込んだ。
……まあ、いいか。
これ以上は聞かないことにした。
「これから真珠王国は大騒ぎになるでしょうね。エルンストの死と呪いが解けたことを結びつける人が現れたら、すぐに疑問を持つはずです。―プリンス家の血筋が絶えれば呪いが解けるのなら、どうして当時の王家は初代公爵を生かしたうえ、子孫まで残させたのかって」
ジャスミーヌはそう推測した。
だが次の瞬間、レインの口から返ってきたのは意外な答えだった。
「実は、それじゃ駄目だったんだ」
「え?」
「涙の聖女は死ぬ間際、自分を殺した蘭花平原の人々と、初代プリンス公爵たちに呪いをかけた。蘭花平原から雨を奪い、加害者たちを生きたまま腐らせる呪いをね」
「……それは、かなり上手くいったみたいですけど?」
「でも、ケイトが本当にやろうとしていたのは、彼らを呪うことだけじゃなかった。最後に、もう一つ条件を付け加えるつもりだったんだ」
「どんな条件ですか?」
「初代プリンス公爵とその血筋を断つことができるのは、ケイト自身だけ。そして、その血筋が完全に絶えたときにのみ、呪いは解ける――そういう条件だよ」
ジャスミーヌは一瞬、言葉を失った。
「でも、そのときの彼女はもう死にかけていたんですよね?」
「だからこそ、抜け道になるんだ」
レインは笑った。
「『プリンス家の血筋を断てるのはケイトだけ』なのに、そのケイト自身が死んでしまった。それでも条件を達成できる可能性を残すためには、世界の側が彼女に『戻ってくる道』を用意しなければならなくなる」
「自分の呪いを利用して……蘇ろうとしたんですか?」
ジャスミーヌは驚いた。
魔法というものが、そこまでのことを可能にするとは思ってもいなかった。
彼女はずっと、魔法とは人や物、あるいは現象そのものを変えるためのものだと思っていた。
けれど、ケイトがやろうとしたことはまるで違う。
まず、決して成立し得ない条件を作る。
そして、その矛盾を解消するために、世界そのものへ辻褄を合わせさせる。
「彼女はそのつもりだったみたいだよ」
「でも、結局は死んでしまった」
「最後の条件を言い終える前に、心臓を抉り出されてしまったからね」
レインの口調はひどく穏やかだった。
「だから呪いだけが残って、彼女は戻ってこなかった」
「そういうこと」
「それなら、どうして私たちはさっき呪いを解くことができたんですか?」
「エルンストを殺したのが、『ケイトの家族の子孫』だったからだよ。呪いというものは、もともと世代を越えて受け継がれていくものだからね」
「ケイトの……子孫?」
ジャスミーヌは驚愕してレインを見つめた。
レインはただ、笑顔で頷く。
「……私?」
「そう。ケイトと大公家に血の繋がりはなかったけれど、彼女は幼い頃に大公家へ養女として迎えられ、養父母から実の娘と変わらない愛情を受けて育った。それに結婚したあとも、忙しい両親に代わって幼い弟の面倒を見ていた。法律の上でも、家族としての情の上でも、彼女は間違いなく大公家の娘だったんだ」
―びっくりした。
ジャスミーヌは内心、ほっと胸を撫で下ろした。
一瞬、ケイトとその妻が女神の力でも借りて子供を作り、その子供が自分の母親だった―などという、とんでもない話なのかと思ってしまった。
一瞬だけ何とも言えない表情になったジャスミーヌを見て、レインが思わず笑う。
「もしかして、『子孫』って言葉から何かとんでもないことを想像した?」
「……」
「安心して。君が今考えたような話じゃないよ」
「今のは、レイン様がわざと誤解を招くような言い方をなさったんでしょう」
「でも、君が今想像したようなことも――いつか本当に起こるかもしれないね」
「どういう意味ですか?」
レインは答えなかった。
ただ、遠くへと視線を向ける。
「世界の風向きが変わろうとしている、ジャスミーヌ。これから先の道は、少し気をつけて歩いたほうがいい」
その言葉に、ジャスミーヌはわずかな不安を覚えた。
けれど、それを顔には出さなかった。
そしてようやく、レインがずっと誰かに似ていると感じていた理由に気づいた。
―リタール王国のエリカ王妃だ。
あの王妃も同じだった。
頭が切れて、狡猾で、口にする言葉にはいつも、真意の掴めない含みがある。
こういう人間を相手にするのは、水底に鰐が潜む沼を渡るようなものだ。
どこから噛みつかれ、水の中へ引きずり込まれるかわからない。
かと思えば、たまたま腹が満ちているからと、こちらなど見向きもしないことだってある。
「ちょっと待って」
セリーナがふと何かを思い出した。
「さっきジャスミーヌと一緒にエルンストを始末したとき、あいつの黒い糸に、すごく古そうな糸が一本絡みついていたわよね?」
「うん。あれがケイトの残した呪いだよ」
レインは頷いた。
「ケイトの『家族』が、自らの手でプリンス家最後の血を断ち切った。その瞬間、あの呪いも存在する理由を失ったんだ」
レインは小さく笑った。
「彼女が本来想定していたやり方とは少し違ったけれど――どうやら世界は、それを『正解』として認めたらしい」
ジャスミーヌとセリーナは顔を見合わせた。
二人はただ、エルンストに報いを受けさせたかっただけだった。
『砕骨者』たちのように、果てしない苦痛の中でいつまでも生き長らえさせることすら望まなかった。
ただ、彼の存在をきっぱりと消し去りたかった。
それだけだった。
それなのに、誰が想像しただろう。
二人は巡り合わせの果てに、真珠王国を数十年ものあいだ縛り続けてきた呪いまで解いてしまったのだ。
数十年前、ケイトが残した呪い。
セリーナの胸から伸びていた黒い糸。
そして、ジャスミーヌが母方から受け継いだ家族の繋がり。
本来なら何の関わりもなかったはずの糸が、この夜、すべて一つに絡み合った。
そして最後に彼女たちは、数十年も前に死んだ一人の女性のために―
この国に長いあいだ絡みつき、腐り果て、もはや解くことさえできなくなっていた死結を、ようやく断ち切った。




