雨が還り雷が迎えに来る
ケイト―『涙の聖女』。
かつて彼の婚約者だった少女は、自分を傷つけた者を簡単に許すような人間ではなかった。
もし当時、彼の両親が口にした「ただ君の気を引きたかっただけだ」「若者の悪ふざけにすぎない」という言葉だけで、ケイトの許しを得られていたのなら――
数十年前に、すべてはとっくに終わっていたはずだ。
彼はケイトとやり直していた。
二人は結婚し、夫婦となり、もしかすると幸せに暮らしていたかもしれない。
そうなっていれば、橘 杏が二人の間に入り込むことも、永遠になかった。
命の終わるその瞬間まで、彼の心のどこかには、まだそんな考えが残っていた。
窓の外では、雨音がますます激しさを増していた。
その音を聞きながら、老人は、今ではほとんど誰も知らない昔の出来事を思い出した。
蘭花平原の人々はずっと、かつて『涙の聖女』が自らこの土地へ赴き、災民を救おうとしたのだと思っていた。
だが、最初に彼らを救おうとしたのは、実は橘 杏だった。
学院時代の杏の友人の一人が、当時この地を治めていた領主の娘だった。
洪水のあと、その少女は泣きながら杏に助けを求めた。
領民たちが飢えていること。
疫病まで広がり始めていること。
橘杏一人の力では、あまりにも多くの人々を救えなかった。
だから彼女は、ケイトを頼った。
誰も思わなかった。
橘杏がもっとも苦しんでいた時期にさえ彼女を裏切らなかった友人が、最後には、本当に選択を迫られたその瞬間に、橘杏を裏切ることになるなど。
「エルンスト……あの子は、もう死んだのだろうな……」
雨は戻った。
『砕骨者』たちも、死に始めている。
初代公爵は、ようやく理解した。
―エルンストは死んだ。
プリンス家に残された最後の血も、ついに絶えたのだ。
初代公爵は、ケイトの最期をその目で見た、数少ない者の一人だった。
今でも、彼女の最後の眼差しをはっきりと覚えている。
胸を貫かれ、身体を切り開かれ、呼吸も弱々しくなっていたというのに、ケイトは最後まで視線を逸らさなかった。
ただ、彼らを見ていた。
痛みのせいで、その美しい瞳から涙が流れ落ちていた。
けれど、その涙はもう何も癒さなかった。
かつて無数の傷を治した聖女の涙でさえ、今度ばかりは、自分自身の身体を元に戻すことができなかった。
「私は、あなたたちを呪う」
ケイトは言った。
「君は聖女だ……そんなこと、できるはずがない」
その言葉を聞くと、ケイトはただ笑った。
「あなたたちは、何もわかっていない」
「『聖女』というものを」
「私は、この土地からすべての雨を奪う」
「あなたたちを、生きたまま腐らせる」
「その残骸が、長い年月の中で少しずつ泥へと変わっていくまで」
「そして――」
「あなたたちの最後の一滴の血が、この世界から消えるその日まで」
彼らは、ケイトの心臓を抉り取った。
呪いのすべてを言い終える前に、ケイトは死んだ。
それでも―
彼女が口にした言葉は、一つ残らず現実になった。
再び激痛が全身を襲った。
初代公爵の身体が激しく痙攣する。
そのたびに、砕けた骨と腐った肉が互いに擦れ合い、さらに強い痛みを生み出した。
けれどもう、叫び声を上げる力さえ残っていなかった。
外では、今も雨が降り続いている。
あらゆる音をかき消してしまいそうなほど激しい雨音を聞きながら、老人は突然、かつて自分を見つめていたケイトの目を思い出した。
最初から、ちゃんとケイトを見ていればよかった。
初めて出会った、あの午後。
もし、周囲の者たちにつられて笑わなかったら。
公爵家に引き取られただけの平民だと、彼女を馬鹿にしなかったら。
緊張のあまり転びかけた姿を、笑わなかったら。
もしあのとき―
ただ手を伸ばして、彼女を支えていたなら。
何かが違っていたのだろうか。
けれど、この世界には、そんな「もしも」は存在しない。
老人の呼吸が止まった。
初代プリンス公爵は、ようやく死んだ。
プリンス家に残されていた最後の血は消えた。
奪われた雨は、大地へ戻った。
死を拒まれていた『砕骨者』たちも、ようやく再び死を与えられた。
こうして、『涙の聖女』がこの世界に残した呪いは、ついに終わりを迎えた。
遥か高空では、ジャスミーヌとセリーナがそのすべてを見ていた。
「わあ……私たち、すごいことをしちゃったのかしら?」
セリーナはジャスミーヌの胸にもたれたまま、自分でも信じられないというように笑った。
ジャスミーヌは答えなかった。
ただ遠くの蘭花平原を、心配そうに見つめていた。
激しい豪雨。
その中を走る、金色の稲妻。
―これは、本当に「許し」なのだろうか。
なぜかジャスミーヌには、むしろ最後の罰のように思えた。
それに、あの金色の稲妻。どこかで見たことがあるような気がする。
ふと、先ほど一瞬だけ目にした光景が脳裏に蘇った。
ソラの小指の周囲に絡みついていた、かすかな金色の電光。
セリーナが少し心配そうに彼女を見上げた。
「ねえ、これからどうするの?」
「たぶん……ひとまずリタール王国に戻ると思う」
セリーナは、その言い方にすぐ気づいた。
「リタール王国へ行く」ではない。「リタール王国へ戻る」。
けれど彼女は何も言わず、ただ小さく笑った。
「……ごめんね」
「え?」
「私のせいで、もう真珠王国には戻って暮らせないでしょう?」
二人ともわかっていた。
今日の出来事とのつながりを、言動や残された魔力の痕跡から誰かに突き止められないようにするためにも、ジャスミーヌは真珠王国から離れていなければならない。
「大丈夫よ」
ジャスミーヌは迷いなく答えた。
「それと、ついでに言っておくけど……ここへ来る前に、あなたの訃報はもうご両親に送ってあるわ」
セリーナが不思議そうな顔をする。
ジャスミーヌは説明した。
「あなたとあいつが本当に同じ日に死んだことになったら、さすがに疑う人も出てくるでしょう? それに、ご家族はみんな真珠王国にいるし。死亡時刻を少しずらしておいたほうが、何かと都合がいいのよ」
「本当に賢い考えね」
セリーナは感心したように頷いた。
だが、少し考えたあと、面白そうに目を輝かせた。
「でもそれだと、ますます悪霊の復讐みたいじゃない? 本当に学院の伝説の『悪霊姫』になっちゃうのかしら」
「百年後には、夜中に中庭へ肝試しに来る学生がいるかもしれないわね」
「それか、女の子たちが恋人を天空神の槍の前まで連れていって、誓わせるの」
セリーナは楽しそうに続けた。
「『もし私を裏切ったら、エルンストみたいに串刺しになる』って」
二人は一緒に笑った。
「そういえば……私も、そろそろ行かなきゃいけないのよね。どうすれば……?」
セリーナは振り返った。
女神の巨大な掌。
そして遥か高空の闇に隠れた、その顔。
どこかに何かの合図や答えがないかと探す。
そのとき―
轟音とともに、雷鳴がすぐそばで響いた。
セリーナはびくりと肩をすくめた。
「全部捧げてもいいとは言ったけど……雷に打たれて死ぬのは、ちょっと……」
再び雷鳴が響く。
今度は、先ほどよりも近かった。
遠く蘭花平原の空で閃いていた金色の雷光が、何かに引き寄せられるように、一筋、また一筋と雲を離れていく。
そして、女神の掌へ向かって集まり始めた。
金色の電光が二人の周囲を取り巻く。
交差し。
絡み合い。
集まりながら、少しずつ人の輪郭を描き出していった。
やがてそこに、一人の若い男の姿が現れた。
ほとんど黒に近い濃い茶色の髪。
翡翠のような緑の瞳。
端整な顔立ちをした青年だった。
彼は二人を見て、微笑んだ。
「こんにちは」
レインが言った。




