呪われた大地に、雨が還る
エルンストが最後の息を吐き出した、その瞬間。
黒い糸が、ぷつりと切れた。
セリーナの全身から、張り詰めていた力が一気に抜けた。
突然膝が崩れ、倒れそうになった彼女を、ジャスミーヌがすぐに支える。
切れた黒い糸を見つめ、それから遠くへと目を向ける。
天空神の槍に貫かれ、無残な姿でぶら下がっているエルンストの亡骸。
それを見たセリーナは、ふいに笑い出した。
最初は、ほんの小さな笑い声だった。
けれど、一度こぼれ出した笑いは止まらなかった。
笑えば笑うほど止められなくなり、ついには両手で顔を覆ってしまう。
ジャスミーヌは何も言わなかった。
ただ優しくセリーナを自分の身体にもたれさせ、好きなだけ笑わせてやった。
笑い声が、静まり返った夜の中に響いていく。
聞いているうちに、それが喜びなのか、悲しみなのか――それとも、ようやくすべての終わりまで辿り着いた者にしかわからない、彼女自身にさえ名づけられない何かなのか、わからなくなっていった。
しばらくして、ようやくセリーナは落ち着きを取り戻した。
「ねえ。学院の人たちが私の死を知ったら……私が悪霊になって戻ってきて、あいつを殺したって思うかしら?」
「絶対に思うわ」
ジャスミーヌは迷うことなく頷いた。
「そのうち学院七不思議のひとつにも数えられるでしょうね。『真夜中の中庭を彷徨い、裏切った男を串刺しにする悪霊』とか」
「それ、ちょっと格好いいわね」
「真珠王国史上最強の悪霊姫、セリーナ」
「それなら、まあ受け入れてあげてもいいわ」
そのとき、ジャスミーヌが何かに気づいた。
「セリーナ、見て」
彼女はセリーナの手を引き、もう一度その場に腰を下ろした。
切れた黒い糸に絡みついていた、あの細い糸。
それが、かすかな光を放っている。
とうに色褪せ、指先で触れただけでも砕け散ってしまいそうなほど脆くなっていた古い糸が、先端から少しずつ崩れ始めた。
細かな欠片となったそれらは淡い光に包まれ、やがて無数の小さな光の粒へと変わっていく。
そして空中へ溶けるように散り―跡形もなく消え去った。
その直後――
二人の目の前の世界が、変わった。
そこに広がっていたのは、果てすら見えない荒野だった。
大地はひどく乾ききり、大小さまざまな窪みと亀裂がどこまでも続いている。
風が吹くたび、黄色い砂が細かな石を巻き込みながら地を這うように流れ、乾ききった地面に新たな跡を刻んでいった。
見渡す限り、一本の木さえない。
わずかな低木や草だけが、大岩の陰に縋りつくようにして、かろうじて生き延びていた。
「ここ……蘭花平原?」
ジャスミーヌは、その場所に見覚えがあった。
――蘭花平原。
数十年前、『涙の聖女』ケイトが洪水の被害に遭った人々を救っていた最中、かつての婚約者である第二王子と、彼に買収された被災民たちの襲撃を受け、命を落とした場所。
聖女が死んだその日から、この平原には一滴の雨さえ降っていない。
「どうして、ここが見えるの?」
セリーナが急に不安そうな顔をした。
「私……ここで死ぬのは、あんまり嫌なんだけど」
二人の背後、遥か頭上から、かすかな笑い声のようなものが聞こえた。
続いて、二人を乗せている巨大な掌までもが、わずかに震えたような気がした。
……あ。
女神様に笑われた。
二人は同時にそう思った。
「え?」
ひやりと冷たい何かが、ジャスミーヌの手の甲に触れた。
彼女は視線を落とす。
透明な小さな水滴がひとつ、肌の上をゆっくりと滑り落ちていった。
今も女神の掌の上にいるはずなのに。
その一滴だけは、目の前に広がる光景をすり抜けるようにして、確かにジャスミーヌの手の上へと落ちてきた。
一滴。
そして、もう一滴。
「……まさか」
セリーナも驚いたように手を伸ばした。
空から、無数の雨粒が降り始めていた。
数十年ものあいだ、一滴の雨さえ降らなかった蘭花平原に―
雨が降っている。
次々と降り注ぐ雨は、見えない何かに遮られているかのように二人を避けていった。
それでも時折、ほんの数滴だけがその境界をすり抜け、二人の肌に触れる。
雨脚は次第に強くなり、密度を増していった。
数十年ものあいだ乾ききっていた大地が、貪るように雨水を吸い込んでいく。
積もった砂埃は洗い流され、深くひび割れた地面のあちこちに、小さな水溜まりが生まれ始めた。
やがて、細い雨は激しい豪雨へと変わった。
まるで空そのものが、数十年も遅れてようやく訪れたこの雨で―
呪いがこの土地に刻みつけた痕跡を、ひとつずつ洗い流そうとしているかのようだった。
「……呪いが、解けたの?」
ジャスミーヌが戸惑うように呟いた。
「私たちがエルンストを殺したから?」
セリーナは答えなかった。
ただジャスミーヌの肩に寄り添いながら、奇跡としか呼びようのないその光景を、驚きに目を見開いて見つめていた。
―その頃。
リタール王国の国境近くを、巨大な木馬がゆっくりと進んでいた。
タチバナは木馬の端にもたれかかり、いつの間にか眠ってしまったらしい。
その目尻から、一筋の涙が静かに流れ落ちていた。
エイデンたちは誰も気づいていない。
眠るタチバナの口元に、幸せそうな微笑みが浮かんでいることにも。
まるで夢の中で、長いあいだ会えずにいた恋人と、ようやく再会できたかのような――そんな甘く、穏やかな微笑みだった。
そして、いつからそこにあったのだろう。
膝の傍らに力なく垂らされたタチバナの手には、
一輪の紫晶花が、静かに咲いていた。




