最後の黒い糸、最後の復讐
※本話には、流血・暴力・残酷な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
「離せ!」
エルンストは激しく身をよじった。
口を開き、大声で助けを呼ぼうとする。
だが次の瞬間、縄のような何かが口の両端に引っかかり、左右の口角を無理やり外側へと引き裂くように引っ張った。
痛みで顔が歪んでいるはずなのに、その表情はまるで笑っているように見えた。
―つい先ほど、天空神の像の前で、あのときのセリーナの表情を思い出して笑っていた彼自身のように。
両手を吊り上げている、縄とも糸ともつかない何かが、今度はエルンストの脛へと絡みついた。
彼は必死に足を捻り、振りほどこうとする。
だが、まるで歯が立たない。
ガウンの下に穿いていたズボンが何かに引っかかり、少しずつ下へと引きずり下ろされていく。
「……やめろ!」
エルンストはすぐに、相手が何をしようとしているのか理解した。
身体をよじり、首を振り、いったい何が自分を縛っているのか確かめようとする。
手首は締めつけられ、痺れるほど痛い。
脛にも、細長い何かが這い、巻きつき、締め上げていく感触がはっきりとある。
だが魔法灯の光を頼りに視線を落としてみても――
裸になった手足には、何も見えなかった。
何ひとつ見えないというのに、その感触だけは吐き気を催すほど鮮明だった。
―まだ夢を見ているのか?
エルンストはそう疑った。
だが、痛みも拘束される感覚もあまりにも生々しい。
どれほど自分に言い聞かせても、ただの夢だとは到底思えなかった。
ついにズボンは完全に脱がされ、薄い布地が宙をひらひらと舞いながら、地面へ落ちていった。
見えない糸はなおも絡みつき、引っ張り続ける。
最後には、エルンストの両腕は背後へ大きく引き開かれ、そのまま柵に吊り下げられた。
遥か上空では、ジャスミーヌが目を閉じたまま、手の中の紫色の糸を操っていた。
紫の糸はエルンストの両腕を這い上がる。
絡みつき、交差し、くぐり抜け、そして締め上げる。
ジャスミーヌは、ほとんど考える必要すらなかった。
その動きは、すでに指が覚えていた。
最後に、紫の糸は二つの頑丈な結び目を鉄柵へ固定し、屠られるのを待つ獲物のように、エルンストの身体を宙吊りにした。
「ねえ、それっていつ覚えたの?」
隣に座っていたセリーナが、興味津々といった様子でジャスミーヌを見つめた。
ジャスミーヌは手を止めることなく答える。
「巡礼の旅のとき。エイデンに教わったの」
「まあ」
セリーナは両手で頬を包み、夢見るような笑みを浮かべた。
「結び方を教わってるうちに、二人のご縁まで結んじゃったの?」
「そうかもね」
ジャスミーヌは最後にぐっと糸を引き、結び目を固く締めた。
「次はあなたの番よ」
セリーナは、最後に残った黒い糸を見つめた。
その手から桃色の糸が伸び、黒い糸を辿って遠くへと走っていく。
やがて桃色の糸はエルンストの身体の周囲へ集まり、互いに絡み合ったかと思うと、ジャスミーヌによって開かれたまま閉じることのできない口の中へ、一斉に飛び込んだ。
糸が歯へ激突する。
激痛とともに、何本かの歯が折れた。
続いて舌へ絡みつき、その柔らかな肉を容赦なく貫き、喉の奥を越えて、さらに下へと入り込んでいく。
そうして桃色の糸は、エルンストの身体の内側へ侵入していった。
身体の内部を這い回られる感覚は、耐え難いほど痛く、同時にひどく気持ち悪かった。
吐きたい。
手を伸ばして、今すぐこの糸を引きずり出したい。
だが、何ひとつできない。
口は無理やり大きく開かれたまま。
両腕も強く拘束されている。
まるで人形にでもされてしまったかのように、エルンストはただ、圧倒的な力に弄ばれることしかできなかった。
しばらく身体の内側を這い回ったあと、桃色の糸は突然、一気に外へと引き抜かれた。
粘ついた液体。
唾液。
そして血。
そこまで一緒に引きずり出される。
エルンストはとうとう堪えきれず、激しく嘔吐した。
しかも身体は吊り下げられたままだ。
吐瀉物も血も、そのまま自分の身体へと降りかかった。
逃げたい。
だが身体も両腕も、固く固定されている。
叫びたい。
だが喉も舌も血まみれで、まともな声など出せない。
死にたい。
それなのに、自分の身体ひとつ自由にできなかった。
突然、身体が落下した。
―やっと死ねる。
そう思った。
勢いよく地面へ落ちていく瞬間、エルンストはむしろ安堵すら覚えた。
だが、身体が地面へ激突する寸前。
両手を固定していた結び目が再び強く張り、エルンストの身体を上空へ引き戻した。
また宙へと吊り上げられる。
そのまま身体は大きく前後へ揺れ始めた。
一度。
また一度。
揺れるたびに、その振り幅は大きくなっていく。
やがてエルンストは気づいた。
自分は今―
まるでブランコのように、何者かに勢いよく揺らされている。
まるで、このままどこかへ投げ飛ばすために。
そして突然、身体が完全に宙へ放り出された。
もっとも高い位置まで振り上げられた瞬間、エルンストは前方を見た。
そこには、巨大な天空神の像があった。
そして神像の手には――
高々と掲げられた、あの太く長い槍。
「……いやだ!」
その瞬間、エルンストは理解した。
違う。
嫌だ。
声にならない口で、必死に叫ぼうとする。
―僕は公爵家の息子だ。
―王家の血を引いているんだ。
―こんな恥ずかしい死に方なんて、できるものか!
その刹那。
エルンストの脳裏に、セリーナの顔が描かれたあの人形が蘇った。
あの朝。
中庭に集まり、卑猥な姿勢で槍に固定された人形を指差して嘲笑っていた学生たち。
人混みの外で、ジャスミーヌに肩を抱かれながら連れ出されようとしていた、真っ青な顔のセリーナ。
そして――
誰よりも大きな声で笑っていた、自分自身。
次の瞬間。
剥き出しになった下半身から、凄まじい痛みが身体を貫いた。
下半身の開口部から始まった裂けるような痛みは、一気に下腹部へと駆け上がり、そのままさらに上へと突き抜けていく。
それがどれほどの痛みなのか理解する暇すらなかった。
意識を失う直前。
エルンストは、血に染まった何かの先端が、自分の口から突き出しているのを見た。
それは――
天空神の槍だった。
ただし、今度その槍に固定されているのは、セリーナの顔を描かれた人形ではない。
エルンスト自身だった。
エルンスト・プリンス。
プリンス公爵家第三代にして、最後の後継者。
彼は、そこで息絶えた。




