女神の掌で交わす誓い
ジャスミーヌがいよいよ動こうとした、その時だった。
彼女よりも華奢な手が伸びてきて、その手をそっと握った。
セリーナだった。
頬には不自然なほど赤みが差し、潤んだ黒い瞳は異様なほど明るい。長い戦いをようやく終えたばかりのように、疲労の奥には、まだ鎮まりきらない昂揚が残っていた。
「そっちは……全部、終わったの?」
ジャスミーヌが尋ねる。
セリーナは頷いた。
「もう、この世界に『羊の花』は一輪も残ってないわ」
「それはよかった」
「ええ」
そこでジャスミーヌは気づいた。
セリーナが見つめているのは、ジャスミーヌの手の中にある、彼女の左胸から伸びる一本の黒い糸だった。
「こっちは、あとこいつだけ」
「それ……エルンスト?」
「……ええ」
セリーナは俯き、自分の左胸と、そこから伸びる最後の黒い糸をそっと撫でた。
そのとき、黒い糸に絡みついている、ひどく色褪せた細い糸に気づく。
「これは何?」
「たぶん、プリンス公爵家に伝わるあの呪い。ええと……ほら、私のお母様の実家に関係してる、あれよ」
セリーナは頷いたが、それ以上気に留める様子はなかった。
ただ、エルンストを示す黒い糸だけをじっと見つめる。
「この糸を見ていると、わかるの。怒りも、恥ずかしさも……思い出したくないことも。全部、これに繋がってるんだって」
「私が片づけるわ」
「ううん……一緒に」
セリーナは首を横に振った。
そしてジャスミーヌの手を取り、自分の胸元へと導いた。
「この二年間、私はずっと怖かった。今だって怖い。でも、最後の一人だけは……少なくともエルンストだけは、私も自分の手でやりたい」
セリーナは顔を上げ、まっすぐにジャスミーヌを見つめた。
その眼差しは懇願しているようでいて、それ以上に、決して拒ませない決意を告げているようだった。
そんなセリーナを見て、ジャスミーヌはふいに昔のことを思い出した。
エルンストが流出した試験問題の責任をジャスミーヌになすりつけようとしたとき、真っ先に立ち上がって証言してくれたセリーナ。
第三王子が自分の失態の後始末をジャスミーヌに押しつけたとき、何ひとつ文句を言わず、夜が明けるまで一緒に付き合ってくれたセリーナ。
そして、あのときも——
誰かがジャスミーヌの酒に毒を入れた。
セリーナはそれに気づいていた。
それなのにジャスミーヌが手を伸ばすより先に杯を取り上げ、その酒を飲み干した。
そんなセリーナを、ジャスミーヌはもう丸二年も見ていなかった。
けれど今この瞬間、あの頃の彼女が、ようやく自分の隣へ戻ってきたような気がした。
ジャスミーヌはセリーナの肩を抱き寄せた。
セリーナも、彼女の手を離さなかった。
二人の顔がゆっくりと近づいていく。互いの睫毛が触れそうなほどに。
そして—
女神の巨大な掌の上。
遥か遠く、それでいて手を伸ばせば届きそうな星々の下で、二人はそっと唇を重ねた。
それは、恋人同士の口づけではなかった。
欲情もなければ、何かを求める気持ちもない。
むしろ、それはひとつの誓いだった。
やがて別々の道を歩んでいく二人が、本当に別れるその前に—
互いがまだ生きていること。
今もここにいること。
それを最後にもう一度、確かめるための口づけだった。
唇が離れると、セリーナは笑った。
「これが、私たちの誓いのキス……ってことよね?」
「ええ」
ジャスミーヌは一瞬の迷いもなく答えた。
星明かりの下、ジャスミーヌはエルンストに何をするつもりだったのか、その計画をセリーナに打ち明けた。
すべてを聞き終えると、セリーナは驚いたように目を見開いた。
「ジャスミーヌ……あなたって、本当に悪女ね」
「あら。今さら気づいたの?」
ジャスミーヌは笑った。
そして立ち上がると半歩下がり、ドレスの裾を摘まんで優雅に一礼する。
それから、セリーナへと手を差し伸べた。
「それでは、私のお姫様——この復讐の旅、その最後まで、私にあなたをお連れする栄誉をいただけますか?」
セリーナは一瞬、きょとんとした。
けれど、すぐに笑った。
そして差し出されたジャスミーヌの手に、自分の手を重ねる。
「ええ、喜んで」
セリーナは、その手を強く握った。
「一緒にやりましょう」




