最後の黒い糸と、あの日の結び目
今、残っている黒い糸は、あと一本だけだった。
ほかのどの糸よりも太く、重く、そして何よりも黒い糸。
その黒い糸には、もう一本、細い糸が絡みついていた。
とうの昔に色褪せ、今にも千切れてしまいそうなほど脆くなった糸だった。
―エルンスト・プリンス。
プリンス公爵家、唯一の後継者。
ジャスミーヌは、そのいかにも古びた細い糸をしばらく見つめていた。
そして、ふと思い出す。
「あ……もしかして、あの有名な呪い?」
実のところ、プリンス公爵家が創設されてから、まだ五十年も経っていない。
初代プリンス公爵は、当時の王家の第二王子だった。
両親から深く愛されていた彼は、二度にわたって取り返しのつかない過ちを犯したあとでさえ、王家から見捨てられることはなかった。
そして、その事件は今なお語り継がれる呪いを残した。
王国有数の穀倉地帯から、雨が消えた。
骨を折られた者たちは死ぬことも、傷が癒えることも許されず、半死半生のまま生き続けることになった。
初代プリンス公爵も例外ではない。
全身の骨を砕かれながら、それでも死ぬことができなかった。
だが、両親はそれを受け入れようとしなかった。
彼らはあらゆる手を尽くし、全身の骨が砕けた息子が少しでも苦痛なく暮らせるようにした。
それどころか、その血筋まで残そうとした。
薬。
魔法。
祝福。
そして、一人、また一人と公爵邸へ送り込まれていく貴族の娘たち。
数年後、初代プリンス公爵はついに一人の息子を残した。
ところが、二代目プリンス公爵は放蕩者だった。
彼が受け継いだ領地は、もともと王国でも指折りの豊かな土地だった。
それがわずか数年で、プリンス領の収穫高は国内最下位にまで転落した。
中年になってようやく一人息子――エルンストを授かったときでさえ、彼が考えたのは領地を立て直すことではなかった。
「跡継ぎの誕生を祝う」という名目で、領民からさらに重い税を取り立てたのだ。
ついに領民の不満は爆発した。
身分も立場も異なる人々が集まり、反乱軍を結成した。
そして、その騒乱はついにアルジー家にも及んだ。
王家はプリンス領へ使節団を送り込んだ。
領民との交渉を任されたのは、ジャスミーヌの父――アルジー伯爵だった。
当初、交渉は順調に進んでいた。
だが、堤防が決壊した。
単に二代目プリンス公爵の杜撰な治水政策が招いた事故だった、と語る者もいる。
一方で、あれは二代目公爵が仕組んだ陰謀だった、と語る者もいた。
洪水を起こして反乱に加わった領民を一掃しようとし、そのために王家から派遣された使節団まで巻き添えにしたのだ、と。
濁流は交渉の場を呑み込んだ。
アルジー伯爵を含む王家の使節団は全滅した。
反乱軍側でも、もっとも知識があり、最後まで交渉による解決を望んでいた有力者たちが命を落とした。
それまで交渉を望んでいた者たちも、ついに話し合いを諦めた。
領民と公爵軍は全面衝突へと突入し、最後には反乱軍が公爵邸へ攻め込み、二代目プリンス公爵を殺害した。
そしてついに事態は完全に制御不能となり、真珠王国はディマン王国へ救援を求めるほかなかった。
派遣されてきたのは、日輪勇者―ヨウタ。
彼が、すべてを『解決』した。
少なくとも、王家の記録にはそう記されている。
騒乱が本当の意味で収束したころ、プリンス領の人口は、以前の半分にも満たなくなっていた。
初代プリンス公爵の犯した過ちは、ジャスミーヌの母方の大公家と深い関わりがあった。
そして二代目プリンス公爵の愚行は、ジャスミーヌの父――大公家の婿でもあったアルジー伯爵の命を奪った。
それでも三代目になってなお、王家はプリンス家の血筋を絶やすつもりはなかった。
彼らはエルンストに妻をあてがおうとした。
それも、プリンス家と大公家を、さらには王家と大公家を、もう一度結び直すことのできる女を。
最初に候補となったのは、ジャスミーヌだった。
だが大公は、大公家の血を引く女をエルンストと婚約させることを断固として拒絶した。
そこで王家が次に目をつけたのが、セレナだった。
セレナ自身は大公家の血縁ではない。
けれど、幼いころからジャスミーヌの親友だった。
その家もアルジー家とは長年親しく、大公家とも古くから商取引を続けている。
ときどき、ジャスミーヌは考えてしまう。
もし、セレナが自分の親友でなかったなら?
もし、彼女の家がアルジー家とも、母の実家である大公家とも、それほど深い関係を持っていなかったなら?
王家は、それでもセレナを選んだのだろうか。
何もかも自分の責任だと考えるのは間違っている。
そんなことは、ジャスミーヌ自身もわかっている。
それでもセレナを見るたびに、その考えを完全に振り払うことはできなかった。
―では、エルンストの黒い糸に絡みついているこの細い糸は、かつて彼の祖父にかけられた呪いなのだろうか?
もし本当に初代プリンス公爵にかけられた呪いなら、なぜ三代目のエルンストに至るまで、この糸は消えずに残っているのだろう。
ジャスミーヌは少し不安になった。
エルンストに手を出した途端、何か妙なものまで発動したら、さすがに少し面倒だ。
けれど……。
二代目プリンス公爵が怒り狂った領民たちに生きたまま八つ裂きにされたときも、特に何かが起きたという話は聞いていない。
「……じゃあ、大丈夫かな」
ジャスミーヌはあっさり安心した。
彼女の手から細い紫の糸が次々と這い出し、黒い糸を伝って、真珠王国の方角へと伸びていった。
一方その頃。
リタール王国を横断する巨大な木馬の上では、錆鉄の冒険者ギルドの四人が、相変わらずのんびりと話をしていた。
彼らはまだ知らない。
遥か彼方の無尽部落で、ジャスミーヌがすでに最後の黒い糸へ手を伸ばしていることを。
「そういえば、エイデン。あなたとジャスミーヌって、そもそもどうやって仲良くなったの?」
タチバナの顔からは、だいぶ酔いの赤みが引いていた。話し方も、先ほどまでのように呂律が怪しくはない。
彼女は興味津々といった様子で尋ねた。
「たしか、巡礼団の護衛を引き受けたときに知り合ったって言ってたよね?」
「そうだよ」
エイデンは当時のことを思い出したのか、自然と口元をほころばせた。
「あの一行、ほとんど女の子ばかりだったからさ。たまに何か困ってないか聞きに行って、手伝えることがあれば手伝ってたんだ」
それを聞いたノーマンは、むしろ不思議そうな顔をした。
「それだけじゃ、仲良くはならないだろ?」
タチバナも疑わしげな目をエイデンに向ける。
「それで、あるときジャスミーヌが、俺にロープの結び方を教えてほしいって言ってきたんだ」
「結び方?」
「うん。野営とか、荷物を縛るときとか、釣りとかで使うやつ。面白そうだと思ったみたいで、教えてくれって。それで、教えながら話すようになって……気づいたら自然と仲良くなってた」
ノーマンの口元に、からかうような笑みが浮かんだ。
「でもエイデン、お前って普段からそんなに親切だったか?」
「父さん!」




