夢と現実の境界が溶けるとき
ロイの問いに対し、ノーマンは悪びれもせず屁理屈をこねた。
「森で珍しい落ち葉を一枚見つけたんだ。それを拾って帰って、妻とその親友に見せてやる――それくらい、良い夫なら誰だってすることだろう?」
ロイは答えなかった。
どうやら、もう彼とまともに話し合うことを諦めたらしい。
どうやら、マリーの異常にはノーマンも気づいていたようだ。
ジャスミーヌには、これからマリーがどうなるのか、おおよその想像がついた。
予知能力らしきものを持ち、そのうえディマン王家の秘密を山ほど知っている人間がリタール王国の手に落ちたのだ。
―頭の中にあるものをすべて吐き出すまで、自由の身になれるとは思わないほうがいいだろう。
……かわいそうに。
ジャスミーヌは、欠片ほどの同情もなくそう思った。
指先を軽く動かし、眠っているマリーへと紫色の糸を向ける。
その糸がマリーに触れようとした、まさにその時だった。
前方から、聞き慣れすぎた声が漂ってきた。
「えっと……ギルドマスター。ジャスミーヌも気に入ってくれたら、俺たちの結婚式のとき、もう少し小さい木馬を作ってくれない? それに乗って入場したいんだけど」
紫色の糸が止まった。
ジャスミーヌの指も止まった。
「俺の魔力はそんなことのためにあるんじゃないぞ、エイデン」
ロイの声は、今にも怒鳴り出しそうだった。
「結婚式の日、ジャスミーヌは真珠王国の衣装を着るのかな。それとも、こっちの国の衣装かな」
エイデンは、本気で悩み始めたらしい。
「……どっちでも似合うだろうな。ジャスミーヌなら、どっちを着ても絶対に綺麗だ」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく動き始めていた紫色の糸が、また止まった。
ジャスミーヌの耳が、勝手に熱くなる。
「ノーマン。お前の息子、酔ってるだろ」
「送別会で、俺たちの分まで半分近く飲んでくれたからな。まあ、仕方ないんじゃないか?」
「ねえ、ギルドマスター。そんなに色気のないこと言わないでよ。ここ何年か、一度も恋愛してないの?」
酒が入ったせいか、エイデンはすっかり大胆になっていた。
「恋愛なんて、人を破滅させるろくでもないものだ」
ロイはきっぱりと言い切った。
「でも、エルフと人間って見た目はほとんど同じじゃないか。いや、寿命が全然違うのは知ってるけどさ。ずっと人間の中で暮らしてきて、一度も誰かを好きになったことないの?」
エイデンはさらに尋ねた。
ロイはしばらく黙っていた。
木馬だけがゆっくりと進み続け、ときおり何かが引っかかるような、ぎし、ぎし、という音を立てている。
「……異なる人型種族同士では、子供はできない」
「だから?」
「だから、最初から実るはずのないものを、どうして始める必要がある?」
すると、先ほどから何度も吐きそうだと訴えていた女冒険者が、酔いの回ったぼんやりした声で口を挟んだ。
「私と妻にも、子供はいなかったよ。でも、私は今でも妻を愛してる。これからもずっと愛し続ける。私がようやく死ねる、その日まで」
「……タチバナ。お前、気分が悪くて吐きそうだって言ってなかったか? まだ喋る余裕があるのか?」
「うっ……そう言われると、またちょっと気持ち悪くなってきた……」
「ねえ、ギルドマスター。それで結婚式には木馬を作ってくれる?」
とうとうロイの堪忍袋の緒が切れた。
「今から十分計る。その間、全員、一言も喋るな」
こうして、乗客たちはしばし沈黙することになった。
巨大な木馬は相変わらず不器用な足取りで草原を進み、枝と枝が擦れ合う小さな音だけが夜の中に響いていた。
ジャスミーヌは少し待った。
エイデンが当分、自分を惑わせるようなことを口にしないと確信してから、改めて木箱の中のマリーへ視線を戻す。
よし。
結婚式のことは―帰ってから考えよう。
まずは自分の家族とエイデンの家族にきちんと顔を合わせてもらわなければ、その先の話には進めない。
今は、目の前のことを片づけるのが先だ。
マリーが現在どのような状況に置かれているのかを知った以上、ジャスミーヌは彼女に与える予定だった罰を変更せざるを得なかった。
マリーがリタール王国に貴重な情報をすべて話し終える前に、その精神を壊してしまうわけにはいかない。
あまりに激しい罰を与えて、これからマリーを受け入れるであろうリタール王国の人間たちに異変を悟られるのも困る。
―森であまりにも恐ろしい目に遭ったせいで、おかしくなってしまったように見せれば?
ジャスミーヌは、救出されたばかりの頃のセレナを思い出した。
あの頃のセレナは、ほとんど毎晩のように悪夢を見ていた。
本来なら身体と心を休めるはずの眠りの中で、彼女は何度も、何度も、あの壊れた、苦痛に満ちた日々を繰り返していた。
時には、特定の匂い。
あるいは音。
何気ない言葉。
そんなほんの些細なものですら、セレナの意識を、あの血と苦痛に満ちた場所へと一瞬で引き戻した。
ジャスミーヌにできたのは、ただ傍にいることだけだった。
けれど、それだけで解決するものではないことは、二人ともわかっていた。
長い時間をかけて、セレナはようやく現実へ戻ってこられるようになった。
それでも、あの暗い記憶は今なお、彼女の影の中に潜んでいる。
今でさえ、セレナの悪夢と現実は危うい均衡の上に成り立っていて、その境界はいつ崩れてもおかしくなかった。
ジャスミーヌは、眠っているマリーを見つめた。
―だったら。
あなたの境界も、ぐちゃぐちゃにしてしまったらどうなるのかしら?
「その『夢』は、リタールにとって役に立つみたいだし……」
ジャスミーヌは少し考えた。
「じゃあ、それは残しておきましょう」
彼女はリタール王国を嫌ってはいない。
少なくとも今のところ、互いの利害は一致している。
何より、リタール王国はエイデンの故郷だ。
そしておそらくは、ジャスミーヌ自身がこれからの人生を過ごすことになる国でもある。
ならば、変えるべきものは一つだけ。
マリーの中にある「夢」と「現実」の境界を、曖昧にする。
ジャスミーヌが指を動かす。
紫色の糸は幾重にも重なりながら、眠るマリーの頭を包み込んでいった。
セレナのために。
そして、マリーに唆された者たちのせいで、同じように学院を去らざるを得なくなった少女たちのために。
紫色の糸が一本、また一本と、マリーの頭の中へ沈んでいく。
そして、彼女の眠れる意識の奥底で―
マリー・フェイトとマリアンナ・ブロンティ。
二人を隔てていた、もともとさえ曖昧だった境界が、再びゆっくりと溶け始めた。
ジャスミーヌはただ、自分が相応しいと思った罰を与えただけだった。
自分がいったい何を変えてしまったのか、彼女は知らない。
そもそも、マリーの中にかつて「マリアンナ・ブロンティ」という人間が存在していたことすら、ジャスミーヌは知らなかった。
次にマリーが目を覚ましたとき。
彼女の目に映る「現実」は、もう以前と同じものではなくなっていた。




