死んだはずの少女を辿る糸
ジャスミーヌは、セリーナが先ほど断ち切った糸が世界各地でどれほど大きな騒動を引き起こしているのか、まだ何も知らなかった。
隣にいるセリーナが、すでに次の桃色の糸を手に取っていることにさえ気づいていない。
今のジャスミーヌが見ているのは、次の標的だけだった。
マリー・フィット。
いつもエルンストの耳元で、囁くように言葉を吹き込んでいた少女。
「そうすれば、きっと姫殿下もお喜びになりますよ」
「元婚約者を厳しく正せば正すほど、姫殿下への誠意を示せます」
そうやって何度も何度もエルンストを煽り、最後にはセリーナを深い奈落へと突き落とした。
セリーナを救い出したあと、ジャスミーヌは学院内で徹底的な情報収集を行っていた。
あの者たちは、自分たちが十分に慎重に動いており、誰にも辿り着かれないと思っていた。
けれど、王家学院ほど秘密を守るのに向いていない場所もない。
貴族の学生には侍従や使用人がついている。
廊下には清掃員がいる。
教室には教師がいる。
厨房や食堂には、数え切れないほどの使用人が働いている。
彼らが「誰もいない」と思い込んでいたのは、ただ、その人たちを最初から「人」として数えていなかったからだ。
そして十分な金を払えば、人の記憶というものは驚くほど鮮明になる。
ジャスミーヌはついには、彼らが互いに回し読みし、セリーナをどう始末するか相談していた紙片まで手に入れた。
最終的に、誰が代償を払うべきなのか。
そして、その一人一人が実際に何をしたのか。
ジャスミーヌはすべてを突き止めていた。
無尽部落へ来たあとには、セリーナ本人の同意を得て、その証拠を一つずつ見せてもいる。
だから今さら、マリーが有罪かどうかを判断し直す必要はなかった。
そのことについては、二人ともとっくに確認済みだった。
ジャスミーヌは黒い糸へそっと触れ、マリーの居場所を探った。
先ほど聞いた、日輪勇者ヨウタとジェイドの会話では、マリーは森の中で死んだことになっていた。
けれど、この糸は残っている。
それだけで、マリーがまだ死んでいないことは分かる。
なぜ生きているのか。
ジャスミーヌはすぐに、いくつかの可能性を考えた。
一つ目。
マリーは、ジェイドが表向きは自分を大切にしているふりをしながら、内心ではひどく嫌っていることに早くから気づいていた。
そこで森へ入ったあと、魔物に襲われて死んだように見せかけ、その隙に逃げた。
……正直、可能性は低い。
セリーナの件が起きたあと、清掃員や食堂の職員がいる前で、エルンストたちと大声で証拠隠滅の方法を相談していたような人物だ。
ジャスミーヌには、マリーが突然そこまで賢くなったとは到底思えなかった。
二つ目。
倒木や死体の下敷きになり、偶然にも魔物の襲撃を免れた。
今も森のどこかで、かろうじて息をつないでいる。
けれどそれでは、ヨウタとジェイドが話していた「マリーのものとされた肉片や遺体」の説明がつかない。
となれば、残るのは三つ目だけだ。
誰かが先にマリーを見つけた。
その人物は彼女を連れ去っただけではなく、ジェイドに「マリーは死んだ」と信じ込ませるための証拠まで、わざと残した。
以前、ジャスミーヌが喫茶店でノーマンとエイデン親子に会った時のことだ。
ノーマンは冗談半分に、エイデンの母親へ書いているという恋文を見せてきたことがあった。
ほんの一瞬目にしただけだったが、ジャスミーヌはその手紙に妙な違和感を覚えた。
短時間では解読できなかった。
けれど、あれが暗号を使った手紙であることだけは確信していた。
ノーマンには、昔から気になる点が多い。
正体が分からず、人前に一度も姿を見せたことのない妻。
リタール王太子と幼い頃から親しい息子、エイデン。
そしてノーマン本人もまた、何度も依頼を受け、日輪勇者と共に各地へ赴いて魔物を討伐してきた熟練の冒険者だった。
そこに加えて、あの「妻」宛ての暗号文。
もしノーマンが森の中で、「本来なら死んでいるはずなのに」、数多くの秘密を知るマリーを発見したら、どうするだろう。
ジャスミーヌは少し考えた。
おそらく彼なら、マリーをずっと秘密裏に連絡を取り合っていた相手のもとへ送り届けるだろう。
ジャスミーヌがマリーの位置を探ろうとすると、黒い糸は彼女の指先からまっすぐ遠くへ伸びていった。
向かう方向は、ジェイドのいる軍営とは正反対。
しかも―
まだ移動し続けている。
ジャスミーヌは瞬きをした。
「……まさか」
本当に当たったのだろうか。
彼女の指先から新たな紫色の糸が生まれる。
その糸はマリーを示す黒い糸に沿って、彼女の居場所を追い始めた。
紫の糸は軍営を抜け、反対方向へと飛んでいく。
荒れ果てた廃墟。
山あいの細い道。
深い森。
やがてジャスミーヌは、見覚えのある景色に気づいた。
―リタール王国の辺境。
そしてついに、紫の糸は目標へ追いついた。
夜の草原を進んでいたのは――
巨大な木馬だった。
……木馬?
ジャスミーヌは、自分の目がおかしくなったのかと思った。
一度目をこすり、もう一度見る。
うん。
やっぱり木馬だ。
太い蔓と木の枝を編み上げて作られた巨大な馬で、一個小隊が余裕をもって乗れるほどの大きさがある。
蔓を束ねて作られた四本の脚は、ややぎこちない動きで草原を踏みしめていた。
胴体部分は乗客用の区画と荷物置き場に分かれ、その間は交差した枝で仕切られている。
紫の糸はさらに伸び、荷物置き場に積まれた大きな木箱を指し示した。
ジャスミーヌが意識を集中し、その木箱の中へ紫の糸を潜り込ませようとした、その時。
前方の座席から話し声が聞こえてきた。
「また吐きそう……」
女の声だった。
続いて男の声が聞こえる。苛立ちと呆れが入り混じったような声。
ジャスミーヌには聞き覚えがあった。以前一度だけ会ったことのある、錆鉄ギルドの会長――エルフ族のロイだ。
「だから言っただろ! あそこで連中と別れの酒なんか飲むなって! この木馬を一回作るのに、俺がどれだけ魔力を使うと思ってるんだ!」
「そんなに怒らないでくださいよ、会長!」
今度はノーマンの声がした。
「送別会にも出ない、酒も飲まないじゃ、何かこっそり持ち出したんじゃないかって怪しまれるでしょう?」
「よくもまあ、そんなことが言えるな?」
ロイが低く唸った。
「俺はお前たちに、生き残りがいないか森を捜索してこいって言ったんだ!」
「王子の侍女を誘拐してこいとは一言も言ってない!」
……あ。
どうやら、完全に当たっていたらしい。
ジャスミーヌは呆れたように、木箱の中へ視線を向けた。
マリーはそこにいた。
手足は柔らかいが丈夫な布でしっかり固定されている。
傷つけるほど強くはない。
けれど、自力で抜け出すこともできない。
身体中の傷はすでに丁寧に手当てされていた。
失われた右脚も、傷ついた左目も、きちんと包帯で覆われ、もう血は滲んでいない。
マリーは目を閉じ、穏やかな呼吸を繰り返していた。
まるで、美しい夢の中に沈んでいるかのように。




