約束の婚儀(Side:ジェスミン)
ジェスミンが旅立つ朝、エイデンは彼女を駅まで見送りに来ていた。
駅へ向かう道中も、彼は旅券や食べ物、防寒着のことを何度も確認してくる。
「帰ってきたら、またあの喫茶店に一緒に行こう。」
エイデンはジェスミンの荷物を列車へ積み込む――もちろん、編み込みのブレスレットをつけた左手で。
すると突然、彼の頬が赤く染まった。
「実はさ……小説によくある、列車の窓越しに別れを告げて、最後は走り去る列車を追いかけるっていう展開に、ちょっと憧れてたんだ……」
「はいはい、もう行くぞ。いつまでも邪魔するんじゃない。」
ノーマンはエイデンの襟首をつかみ、そのまま引きずって連れて行った。
ジェスミンは車窓越しに微笑みながら、彼へ手を振って別れを告げた。
――しかし。
ジェスミンは列車に乗ったあと、わずか二駅で降りた。
降り立ったのは温泉観光で知られる小さな町。
夏の朝日が照りつけるこの時間に、ここを訪れる者などほとんどいない。
これは、ジェスミンが誰にも明かしていない秘密だった。
早朝に外出する人々を避けながら、人目につかない細い小道を迷いなく進み、やがて奥まった小さな林へと入っていく。
周囲に誰もいないことを確認すると、服の中から首に掛けた金のネックレスを取り出した。
先端には淡い紫色をしたアメジストフラワーを模した花飾りのペンダントが揺れている。その表面には複雑な古代ルーンが刻まれていた。
それは、魔法転移のための魔導具だった。
魔法転移の魔導具は極めて貴重で希少な品であり、大国の王家でさえ所有しているとは限らない。
安全保障上の理由から、許可なき長距離転移は現在、多くの国で禁忌として法律により厳しく禁じられている。
まして世界情勢が不安定な今では、なおさらだった。
だからこそ、〈果てなき部族〉が部族の入口へ通じる転移の魔導具を自分に貸し与えてくれたことへ、ジェスミンは心から感謝していた。
同時に、ほんの少しだけ恐れてもいた。
この善意の裏には、何か別の意図があるのではないか。
彼女はもうずっと前から、この世界に何の代償も伴わない善意など存在しないと知っていた。
複雑な思いを胸に、ジェスミンは魔導具を起動した。
再び目を開けたとき、彼女はすでに〈果てなき部族〉の入口に立っていた。
昨年の巡礼でも、旅人たちは途中で〈果てなき部族〉の案内人と合流し、その後は目隠しをされたまま、飼い慣らされた魔物の引く馬車で集落まで運ばれている。
つまり、外部の人間は誰一人として、〈果てなき部族〉がアカハン大陸のどこに存在するのかを知らないのだ。
ジェスミンを迎えに来たのは、昨年の巡礼で彼女たちを案内してくれた三人の女性だった。
年長のキャロライン夫人。
穏やかな老婦人にしか見えないが、部族を束ねる女長老の一人であり、長い歳月と積み重ねた威厳をその身に宿している。
慈愛に満ちた母親のような雰囲気を持つジュリア夫人。
部族の中核を担い、評議会でも重要な立場にある女性だ。
そして、鮮やかな赤髪を揺らす若い少女アンナ。
舞踊を得意とし、昨年の巡礼では何度もジェスミンとともに踊った。
三人とも、風通しの良い淡い色の長衣をまとい、豪華な帯で腰を締めていた。
その衣には、全員共通の刺繍が施されている。
紫色の花。
そして、無数の触手を持つ巨大な何か。
ジェスミンは三人と礼儀正しく挨拶を交わしたあと、魔法による所持品検査を受け、危険物を携帯していないことを確認されてから、ようやく集落の中へ迎え入れられた。
〈果てなき部族〉は、前回訪れたときとほとんど変わっていなかった。
通りの両側には石造りの家々が並び、淡い色の壁と青い屋根が夏空に映えている。
開け放たれた扉の奥には、花々が咲き誇り、小さな池を囲む中庭がかすかに見えた。
家の前庭には様々な植物が繁茂している。森林にしか育たない低木と平原の花々が同じ場所に混在しており、その植生だけでは、この集落がどこに存在するのか見当すらつかない。
この場所では――
世界の理さえ、存在していないのかもしれなかった。
遠くから、ほのかに塩気を帯びた湿った匂いが漂ってくる。
咲き誇る花々の甘い香りの奥に隠れるような、潮の香りだった。
初めてここを訪れたときから、ジェスミンはその匂いに気づいていた。
彼女は何も口にせず、その事実だけを胸に留める。
もしかすると、この場所のどこかは海に面しているのかもしれない――そう静かに推測しながら。
「セリーナがずっと待ってたわ。」
アンナは嬉しそうにジェスミンの腕を取り、親しげに笑った。
「まだ身体は弱いけれど、このところは毎日無理をして起き上がって、これからの儀式のための品を自分で縫っているのよ。」
ジュリアは口元を隠しながら微笑む。
「若い子って、綺麗なドレスや美しいヴェールに憧れるものよね。でも、婚姻の契約というのは、衣装や式典なんかより、ずっと重いものなの。」
キャロラインは穏やかに続けた。
「婚礼とは、二人の覚悟そのものを形にする儀式なのだから。」
老女。
母。
少女。
三人は同時にジェスミンを見つめた。
その瞳には、どこか神性めいた光が宿っている。
それは純白の神殿で神官たちが説くような、清らかで優しい慈愛ではない。
むしろ、暴風や大海のような、荒々しく冷酷な自然そのもの。
善悪や祈りなどには決して左右されない、高次の存在の気配だった。
「覚悟はできていますか、ジェスミン。」
「はい。」
ジェスミンはまっすぐに答えた。
「私は――『婚儀』を成し遂げる覚悟ができています。」




