日輪勇者が死んだ世界
「……駄目だ!」
ジェイドの声は、ひどく取り乱していた。
「父上には言わないでくれ」
「なぜ?」
「父上はもともと僕を疑っているんだ。もし、マリーが本当はあれほど重要な記憶を持っていたのに、それを僕が――」
ジェイドはそこで、不意に口をつぐんだ。
その続きを、ヨウタがわずかな嘲りを込めて引き取る。
「それなのに無理やり森へ連れていって、いわゆる『魔物の王の毛皮の弱点』とやらを探させた挙げ句、マリーも護衛も全員、魔物の王に殺された?」
ジェイドの顔から、さっと血の気が引いた。
まるで森で目にした何かが再び脳裏に蘇ったかのように、彼はとっさに口元を押さえ、よろめきながら一歩後ずさる。
「うっ……!」
その場に膝をつき、激しく咳き込み、何度もえずく。やがて口元から白い唾液がこぼれ落ちた。
妖しいほどに整っていたその顔は、今や恐怖によって見る影もなく歪んでいる。
「連中の死に様を思い出して、怖くなったか?」
ヨウタは冷ややかに彼を見下ろした。
「お気の毒に、王子殿下。王位を争うつもりなら、まずは自分の決断で誰かが死ぬことに慣れたほうがいい」
「自分の手を汚す覚悟すらないなら、王都へ帰れ。何の実権もない王子としてなら、少なくとも平穏に老いていけるだろうさ」
――マリーが、魔物の王に殺された?
紫の糸を通して思いがけない話を耳にし、ジャスミーヌは思わず呆然とした。
自分が去ったあとに、そんなことが起きていたなんて。
けれど次の瞬間、何かがおかしいと気づいた。
彼女は手元へ視線を落とし、何本もの黒い糸を探して、もう一度数え直す。
ジェイド王子。第三王子。エルンスト……そして、マリー。
マリーの糸は切れていなかった。
死者との縁のように色褪せていくこともなく、その細い糸は今もぴんと張り、かすかに規則正しい震えを伝えている。
まるで、その向こう側にいる誰かが、今も呼吸をしているかのように。
「……もしかして、まだ生きてる?」
遥かな高みにいる女神から、答えは返ってこなかった。
ただジャスミーヌを載せている巨大な両手だけが、笑いを堪えるかのように、かすかに震えた。
ヨウタとジェイドの会話は、まだ続いていた。
ジェイドは必死に弁解している。その声は甲高く、ほとんど悲鳴に近かった。
「母妃のせいなんだ! 母妃が幼い頃から僕を女の子として育てたから! そうでなければ、僕はこんなふうにはなっていなかった!」
「俺の知る限り、この世界にも有能な女はいくらでもいる。リタール王国のエリカ王妃や、錆鉄ギルドのタチバナさんとかな」
ヨウタが鼻で笑った。
「だったら、女として育てられたことが問題じゃないらしいな」
「単に、お前自身が駄目なだけだ。そうだろう――『ジェナ王女殿下』?」
「その名前で呼ぶな!」
ついにジェイドが絶叫した。
天幕の外で、ジャスミーヌは何も言わなかった。
ただ、五本の指に絡みついていた紫の糸が、ほんのわずかに震えた。
「全部、母上のせいなんだ! 小さい頃から僕を女の子として育てて! 母上さえあんなことをしなければ、僕は今みたいにはなっていなかった!」
「マリーだってそうだ! あいつは前世のことを覚えていたくせに、何も話そうとしなかった! いつも夢だ、自分が夢で見ただけだって――僕がどれだけ手を尽くして、ようやく少しずつ話すようになったと思ってる!」
「前世?」
ヨウタは、その言葉を聞き逃さなかった。
ジェイドはそこで初めて、自分が余計なことを口走ったと気づいたらしい。
しばらく答えなかった。
「続けろ」
「……マリーは、僕が知らないと思っていた」
「でも僕は、あいつの日記を盗み見たことがある。それに何度か、部屋の外から独り言を聞いたこともあった」
「自分には『前世』の記憶があるって言っていたんだ」
「どんな前世だ?」
「彼女は……リタール王国の公爵令嬢だったらしい」
「それで?」
ジェイドが、ごくりと唾を呑み込んだ。
「彼女が覚えているその世界では、十六年前に魔物の王と戦ったのは……レインではありませんでした」
「あなたです」
天幕の中に、短い沈黙が落ちた。
気まずいとさえ言えるほどの静寂だった。
「それで?」
「……あなたは、死にました」
ヨウタはしばらく何も言わなかった。
そんな話を聞かされたとき、あの氷山のように冷たい勇者がどんな顔をするのか、ジャスミーヌは少し気になった。
けれど、気づかれるわけにはいかない。今は紫の糸を天幕の外に留めておくしかなかった。
やがて、ヨウタが口を開いた。
「……俺が死んだあとは?」
その声は、意外なほど平静だった。
「生き残ったレインが、今の俺の立場に収まったのか?」
「いいえ」
ヨウタの機嫌を損ねることを恐れているのか、ジェイドの声は震えていた。
「マリーの日記を読んだんです。そこには、『空の使徒』と呼ばれる人物が王国に反旗を翻し、僕たちの国とリタール王国との国境地帯を占拠した、と……」
「レインは、その人物の片腕になったようです」
ヨウタは、再び沈黙した。
―空の使徒。
ジャスミーヌはぱちりと瞬きをした。
そして無意識に視線を落とし、自分の指に絡みつく紫の糸を見つめた。
そのとき突然、遠くから慌ただしい足音が響いてきた。
「日輪勇者様!」
若い兵士が、足早に天幕へと近づいてくる。
「ソル大佐がお呼びです! 王室から連絡が入ったとのことです!」
ヨウタは舌打ちし、小声で二、三言文句をこぼすと、天幕の入口をめくり上げ、呼びに来た兵士とともに立ち去った。
二人の足音が遠ざかると、天幕の中は急に静まり返った。
ジェイドは何も言わない。
ジャスミーヌは数秒待ってから、指に絡みつく紫の糸へと視線を落とした。
―よし。
盗み聞きは、ここまで。
ここからが、本来の目的だ。
ジャスミーヌがそっと指を動かす。
その動きに従い、紫の糸は音もなく天幕の中へと潜り込んでいった。




