花嫁が結ぶ黒い糸
ジャスミーヌは、細い黒糸の一本に手を伸ばした。
触れた瞬間、それが誰につながっているのか、すぐにわかった。
彼らは「ジェンナ王女」や権勢を持つ子息たちに取り入り、王族や公爵家、宰相家の権力に群がって、その恩恵を吸い上げていた者たちだった。
本当の友人である必要などない。
彼らのそばに立ち、笑って話を合わせ、親しいふりをしているだけで、それなりの利益にありつけたのだから。
セリーナがエルンストから大勢の前で婚約破棄を言い渡され、公爵家の衛兵を呼びつけられて引きずり出されたときも、彼らは何もしなかった。
治安の悪さで悪名高い地区へ捨ててやる、とエルンストが声高に宣言しても。
彼らはただ囃し立てた。
嘲笑った。
そして、手を貸した。
ジャスミーヌが学園へ戻り、セリーナが行方不明になっていることに気づいたあとでさえ、彼らはエルンストたちに加担し、真相を隠す手伝いまでしていた。
けれど、被害者はセリーナだけではなかった。
婚約者。
恋敵。
学業上の競争相手。
あるいは、ただ気に食わないというだけの親族。
自分たちの邪魔になる者がいれば、背後にいる権力者の名を利用して修道院へ送り込み、未来のない結婚を押しつけ、時には社交界から完全に姿を消させる。
―一度に大勢死ねば、余計な注目を集めるかもしれない。
ジャスミーヌはそう考えた。
しばらく思案した末、彼女は彼らに与える罰を決めた。
痛みだ。
痛みというものは複雑だ。
身体的な原因から生じることもあれば、精神的な要因が関わることもある。
多くの場合、痛みには何らかの原因がある。
まず鎮痛薬で症状を和らげ、診察や検査を重ねて原因を突き止め、その病を治療すれば、いずれ痛みも消えていく。
では――
どれほど調べても、何の原因も見つからない痛みだったら?
最初のうちは、周囲の人間も治療する者たちも心配し、どうにか治そうとしてくれるだろう。
けれど、何度検査をしても異常が見つからなければ、やがて周囲は少しずつ疲れ、苛立ちはじめる。
そして、いつしか疑うようになる。
本当は痛くなどないのではないか。
嘘をついているのではないか、と。
「本当に、そんなに痛いの?」
「鎮痛薬に頼りすぎているんじゃない?」
「考えすぎなんじゃないの?」
痛みは消えない。
けれど、彼らを信じる者だけが、少しずつ減っていく。
この者たちは、あまりにも他人の力に取り入り、楽に利益を得ることに慣れすぎている。
そんな彼らが絶え間ない痛みに襲われれば、今まで築いてきた生活など、あっけなく崩れてしまうかもしれない。
今持っているものを、すべて失うことさえあるだろう。
それでも痛みを抱えたまま生きていく術を見つけられるのなら、生きればいい。
できないのなら――
それもまた、彼ら自身の選択だ。
それが、ジャスミーヌの与える罰だった。
ジャスミーヌは黒い糸を一本ずつ数えていった。
その途中で、ふと一本だけ灰色の糸が混じっていることに気づいた。
ほかの糸よりも細く、色も薄い。
長い年月を経て褪せてしまった灰色ではない。
初めから、そこに込められた感情そのものが、それほど深くなかったかのような色だった。
―それほど憎んではいない、ということ?
ジャスミーヌが興味を引かれて指先で触れると、ひとつの名がたちまち頭の中に浮かんだ。
真珠王国の第三王子。
かつての、ジャスミーヌの婚約者。
「……ああ。あなたなのね」
婚約が解消された直後、第三王子は女王によって王宮へ呼び戻されていた。
だから確かに、セリーナが連れ去られた一件そのものには関わっていない。
けれど、そのあと?
彼は、エルンストたちが何をしたのか知っていた。
知っていて、何もしなかった。
以前と変わらず彼らと言葉を交わし、同じ宴席に出席し、友人として付き合い続けた。
まるで、自分自身の手でセリーナを傷つけたわけではないのだから、すべて自分には関係のないことだとでもいうように。
その後、彼は何事もなかったかのようにジャスミーヌの家を訪れ、婚約を結び直したいと申し出てきた。
過去の出来事など、初めから何ひとつ存在しなかったかのように。
ジャスミーヌの母が二人を会わせたとき、第三王子はさらに、エルンストとセリーナを結婚させればいい、と自ら提案した。
「エルンストはもう、自分が悪かったとわかっている」
第三王子はひどく穏やかな口調で言った。
その声には諭すような響きすらあり、まるで皆のために、これ以上ないほど合理的な解決策を提示しているつもりでいるようだった。
「責任を取ってセリーナと結婚し、これからきちんと面倒を見ると言っているんだ。それなら、もう問題ないだろう?」
「もしセリーナが子供を産みたくないのなら……確か、妹がいたよね? その妹も一緒にエルンストへ嫁がせて、側室として子供を産ませればいい」
当時、セリーナの妹はまだ十歳だった。
その言葉を聞いたとき、ジャスミーヌは長いあいだ第三王子の顔を見つめていた。
目の前に座っているこの男は、本当にまともなのだろうか。
そう疑わずにはいられなかった。
怒りで頭の中が真っ白になり、家へ戻って織り魔法を使い、第三王子とエルンストをその場で呪ってしまおうかとさえ思った。
だが、この国で今も織り魔法を扱える者はあまりにも少ない。
そんなことをすれば、誰が術をかけたのか、簡単に突き止められてしまう。
ジャスミーヌは目の前の灰色の糸を眺め――ふっと笑った。
引かなかった。
断ち切りもしなかった。
まだ、その時ではない。
なにしろ第三王子は、他人が誰と結婚すべきかを決めるのが、ずいぶんとお好きらしい。
それならいつの日か―
自分の未来を誰かに決められたとしても、文句はないだろう。
ジャスミーヌは再び、黒い糸へと意識を戻した。
指先で一本一本を慎重になぞり、それぞれ異なる場所に、小さな結び目を作っていく。
数日後に発症するもの。
数か月後に発症するもの。
中には、一年後まで何も起こらないようにしたものさえあった。
こうしておけば、彼らが同じ時期に一斉に症状を訴えることはない。
すべては、静かに起きればいい。
何年も前の「砕骨の未亡人」のように―
誰もが目撃する、公開処刑になどする必要はなかった。




