名もなき色が降りてくる
もし、遠い彼方にいる私を見つけても。
あなたとの記憶なしには、
あの古い夕陽の中へ歩いていくことはできない。
ああ、暗い道よ。
私はもうすぐ帰る。
この聖なる大地に、
静かに横たわるために。
ジャスミーヌには分かった。
歌が続くにつれ、周囲の魔力が流れ始めている。
まるで先ほど交わした誓いが、本当に目には見えない契約へと姿を変えたかのようだった。
ジャスミーヌとセリーナの身体から、同じ何かに引かれるように魔力が絶え間なく流れ出していく。
本来ならまったく異なるはずの二人の魔力は、二人の間で交わり、絡み合い、やがて一つへと溶け合っていった。
ここへ来る前から、ジャスミーヌは最悪の事態を想定していた。
スカートの表にも裏にも、編み魔法によって大量の魔力を縫い込んである。
肩に掛けた紫色のストールでさえ、一針一針に防護と反撃の術式が仕込まれていた。
彼女に危険が迫れば、それらの魔法は自動的に発動するはずだった。
けれど今は、何も起こらない。
これほど大量の魔力が身体から吸い出されているというのに、スカートにもストールにも何の反応もなかった。
身を守るために仕込んだ術式の一つとして、それを止めようとはしない。
まるでこの婚儀の前では、ジャスミーヌがこれまで知っていた魔法の法則そのものが、意味を失ってしまったかのようだった。
周囲では、部族の者たちが歌い続けている。
旋律の決まった節目に合わせて、一斉に両手を掲げ、ジャスミーヌの見たこともない仕草を繰り返していた。
いつからだったのだろう。
歌声が変わっていた。
十数人が同時に歌っているはずなのに、ジャスミーヌの耳に届くのは、たった一人の声だけだった。
同じ高さ。
同じ呼吸。
息を継ぐ瞬間さえ、寸分違わない。
歌声に合わせて、色の異なる魔力が一人一人の身体からゆっくりと立ち昇り、空中で絡み合っていく。
遠目には、咲き誇る巨大な花のようにも、夜空に咲いたまま凍りついた花火のようにも見えた。
ソラが片手を上げる。
それまで雑然と絡み合っていた魔力が、突然進むべき方向を見つけたかのように動き始めた。
人々の頭上を越え、ソラのもとへと集まっていく。
そして彼に導かれるまま二つの奔流へと分かれ、黒い岩礁の中央に立つ二人の花嫁へと注ぎ込まれた。
二つの魔力が交わった、その瞬間。
水平線の上に最後までしがみついていた夕陽が――消えた。
空が一気に暗くなる。
次の瞬間、一本の金色の稲妻が、黒藍色の天幕を切り裂いた。
少し遅れて轟音がその光を追いかけるように天の彼方から響き、海面を這うように広がっていった。
暗く沈んだ空に、やがて一つの「色」が浮かび上がった。
紫と赤の間にあるように見える。
確かに目には映っているのに、ジャスミーヌは記憶の中から、その色を呼ぶための名前を一つも見つけられなかった。
名もなき色は天幕の奥からゆっくりと下へ広がり、一歩ずつ黒い岩礁へと迫ってくる。
金色の稲妻が岩礁の周囲を走り回る。
けれど、一度として本当に地上へ落ちることはなかった。
まるで稲妻までもが、その名もなき色が辿り着くのを待っているかのようだった。
ジャスミーヌは無意識にソラへ目を向けた。
だが、そこにはもう、黒い服を身につけた男の姿はなかった。
立っていたのは、透明で空洞の人型だった。
透き通った殻の内側には、深い青色の水が流れている。
けれど、その水はいくら流れ込んでも、空洞を完全に満たすことができない。
左胸には、一輪の巨大な深紅の薔薇が咲き誇っていた。
太い茎が萼の下から伸び、そこから無数の緑色の蔓へと枝分かれしている。
蔓は胸や腹、肩、四肢へと這い広がり、透明な人型のほとんどすべてを覆い尽くしていた。
ただ一か所。
左手の小指だけが空いていた。
そこへ向かって伸びる蔓は、まるで何かを意図的に避けるように、指の付け根へ届く直前で進路を変えている。
その小指には、金色の電光が輪のように絡みついていた。
細い雷弧が絶え間なく弾け、小指の周囲を跳ね回っている。
蔓は近づかない。
電光も、見えない境界を越えようとはしない。
二つの力は、互いに一切干渉していなかった。
そして突然。
ジャスミーヌは、自分の身体から重さが消えたのを感じた。
同時に、足の裏から岩礁の感触も消える。
慌てて下を見る。
漆黒の岩礁が、急速に遠ざかっていた。
あの紫とも赤ともつかない名もなき色が、いつの間にか彼女の全身を包み込み、その身体をゆっくりと上へ運んでいる。
セリーナは?
ジャスミーヌは勢いよく振り返った。
隣には誰もいない。
下を見れば、見慣れたショールだけが、黒い岩礁の上にぽつんと取り残されていた。
「セリーナ?」
ジャスミーヌは慌てて周囲を見回した。
そして、ようやくセリーナを見つけた。
同時に――
その名もなき色の中で、セリーナを抱いている「何か」の姿も。
雲と霧の向こうに、山脈のように巨大な女の姿が佇んでいた。
顔の大半も、その身体のほとんども雲の中へ隠れている。
辛うじて見えるのは、長く垂れた黒髪と、身体を覆う白い長衣だけだった。
女神は両手をそっと合わせるようにしていた。
その掌の中には、身体を丸めたセリーナがいる。
まるで、生まれたばかりの赤子のように小さかった。
「怖がらなくていい。」
低く響く何かが、何の前触れもなく現れた。
それを「声」と呼んでいいのか、ジャスミーヌには分からなかった。
耳から聞こえたのではない。
その言葉は、直接意識の中へ流れ込んできたのだ。
海鳴りのようです。
雷鳴のようです。
山間を吹き抜ける風のようでもあった。
それなのに、その意味だけは驚くほど鮮明に理解できた。
女神が、降臨した。




