花は罪を知らない
セルリナが咳き込むたび、黒く長い髪の間から紫色の小さな花が舞い落ちた。
まるで、もう抑えきれなくなったかのように。
一輪、また一輪と―。
紫色の花々は髪の隙間から次々と咲き、そして静かに散っていく。
肩に掛けていたショールが滑り落ち、服に覆われていない上腕と背中の上部が外気にさらされた。
肩からは、皮膚の下で樹の根のようにうねる隆起が浮かび上がっている。
その根は腕へと這うように広がり、ところどころでは皮膚を突き破って細い枝を芽吹かせていた。
背中では脊椎の輪郭さえ歪み、椎骨の脇から伸びた細かな枝が肩の歪な紋様と絡み合っていた。
「……痛いっ!」
セルリナは肩を抱き、身体を丸めて涙をこぼした。
ソラはすぐに動いた。
椅子から立ち上がると彼女の隣へ腰を下ろし、その身体を優しく支えながら、自分の方へ顔を向けさせる。
「僕の目を見て。」
穏やかな声だった。
セルリナは戸惑いながら顔を上げる。
ソラは静かに彼女を見つめた。
次の瞬間。
深い茶色だった瞳が、紫とも紅ともつかない妖しい色へとゆっくり染まっていく。
そして彼は、一つの言葉を口にした。
その場にいた誰一人として意味を理解できない言葉。
いや、本当に声として発せられたのかさえ疑いたくなるような、不思議な響きだった。
セルリナの肩と背中を這っていた枝は、その瞬間ぴたりと成長を止めた。
それどころか、少しずつ元へと縮み始める。
呼吸は次第に落ち着き、苦痛に歪んでいた表情も少しずつ和らいでいった。
ジャスミーヌはすぐに落ちたショールを拾い上げ、広げ直してから、再び柔らかな布でセルリナの身体を包み込む。
「少し進行しているみたいね。」
ジュリアが立ち上がった。
「急いで薬を用意するわ。アンナ、一緒に調合をお願い。」
「ジャスミーヌさん、住まいに置いてある赤い花びらを浸した水を取ってきてもらえる?」
全員が席を立ち、それぞれ動き始めた。
やがて円卓のそばには、ソラとセルリナだけが残る。
ソラは彼女を近くの寝椅子へと寝かせ、自分はその隣の椅子に腰を下ろした。
彼は再び、セルリナには理解できない言葉をいくつか紡いだ。
今度は静かな空間だったからこそ、セルリナははっきりと感じた。
ソラが言葉を発した、その瞬間。
空気そのものが変わったのだ。
何かが、そこを通り過ぎた。
それは視界には現れなかった。
けれど、確かにそこに「存在していた」と分かる。
ほんの一瞬だけ。
世界は完全な静寂に包まれた。あまりにも不自然な静けさだった。
普段なら聞こえるはずの、ごく僅かな環境音さえ消え失せていた。
セルリナの髪に咲いていた紫色の花は、一輪、また一輪と散り落ちていく。
新しい花は、もう咲かなかった。
背中の枝や歪んだ紋様も急速に縮み始める。
先ほどまでの焼けつくような痛みとは違い、今度はくすぐったいような感覚だけが残った。
「少なくとも、今夜までは持つはずだ。」
ソラはそう言った。
「ありがとうございます!」
セルリナは目を丸くしながら、自分の身体に起きた変化を見つめた。
寝椅子へ横になり直したあと、彼女はふと、一つの疑問を思い出す。
ずっと聞きたかったのに、機会がなくて聞けなかったことだった。
長い沈黙の末、彼女は恐る恐る口を開く。
「もし……ジャスミーヌが今夜の儀式を手伝ってくれたら……」
「何か罰を受けたり……報いを受けたりは、しないのでしょうか?」
心配そうに尋ねる。
もしジャスミーヌに何か悪いことが起きるのなら、自分はいつでも儀式を止めるつもりだった。
「罰? もちろん、そんなものはないよ。」
ソラは意外そうに目を瞬かせた。
「私は……復讐したいんです。私をこんな姿にした人たちにも、同じ苦しみを味わってほしい。」
「でも……それは、やっぱり悪いことですよね?」
「だから?」
ソラは小さく笑った。
不安そうなセルリナを見つめながら、穏やかな口調で続ける。
「悪いことをしたからといって、報いなんてものは来ない。」
セルリナは目を見開いた。
そんな答えが返ってくるとは思ってもいなかった。
「君たちの身体に植え付けられた《羊の花》もそうだ。ディマン王国と華唐国では、この商売が何年も続いてきた。それでも、酷い目に遭った人間なんて、ほとんどいない。」
「別の世界から人を攫い、戦わせ、魔法を使わせる。そんなものも紛れもない悪だ。それでもディマン王国は、僕たちの屍の上に立ちながら、今もなお栄えている。」
「だから安心していい。ジャスミーヌに何かが起こることはない。」
「宗教の指導者なら、もっと善悪とか、因果応報とか……そういう話を長々とするものだと思っていました。」
「豊穣の女神は、そういう神じゃない。」
ソラは静かに首を振った。
「僕たちは、自分たちの信念を強くするために女神を信仰している。そして、その信念を胸に、最後まで抗い続けるんだ。」
セルリナは学校で受けた宗教の授業を思い出した。
教わった内容とは少し違う気もしたが、不思議と気にはならなかった。
「……ジャスミーヌから聞きました。」
セルリナはどこか慌てたように、そして懇願するように言う。
「あなたは、リタール王国で、とても大切な立場にいるそうですね。」
「もしこれからジャスミーヌがリタール王国で暮らすことになったら……きっと守ってくださいますよね?」
「もちろん。」
ソラは真剣な表情で頷いた。
「彼女に悪いことは起きませんよね?」
「ジャスミーヌは、これから僕の大切な教え子になる。できる限りのことはする。」
「実は……」
セルリナは少しだけためらった。
その視線は、無意識のうちにソラの左手の小指へと向けられる。
乳白色の指輪は、美しかった。
だからこそ、胸の奥に言いようのない寒気が走る。
あの質感。
あの繊細な紋理―。
彼女は口にはしなかった。
―あれは、骨を削って作られた指輪だ。
「私たちの家には、ディマン王家からの賠償品が届きました。その中には、ヴィクトリア側妃の嫁入り道具だった宝飾品も含まれています。本当は、私が死んだあとジャスミーヌに渡そうと思っていました。でも……もしかしたら、あなたの方が必要なのではないかと。」
「いや、それはそのままジャスミーヌに渡してあげて。」
セルリナは首を横に振る。
「私の家は代々、宝飾商を営んできました。宝石や装飾品の素材も、意匠も、人より詳しいつもりです。」
「ヴィクトリア側妃が賠償として送ってきた宝飾品の中には……リタール王国の王家の紋章が刻まれたものが、いくつか混じっていました。」




