↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/85

花は罪を知らない

セルリナが咳き込むたび、黒く長い髪の間から紫色の小さな花が舞い落ちた。


まるで、もう抑えきれなくなったかのように。


一輪、また一輪と―。

紫色の花々は髪の隙間から次々と咲き、そして静かに散っていく。


肩に掛けていたショールが滑り落ち、服に覆われていない上腕と背中の上部が外気にさらされた。

肩からは、皮膚の下で樹の根のようにうねる隆起が浮かび上がっている。

その根は腕へと這うように広がり、ところどころでは皮膚を突き破って細い枝を芽吹かせていた。

背中では脊椎の輪郭さえ歪み、椎骨の脇から伸びた細かな枝が肩の歪な紋様と絡み合っていた。


「……痛いっ!」


セルリナは肩を抱き、身体を丸めて涙をこぼした。


ソラはすぐに動いた。

椅子から立ち上がると彼女の隣へ腰を下ろし、その身体を優しく支えながら、自分の方へ顔を向けさせる。


「僕の目を見て。」


穏やかな声だった。


セルリナは戸惑いながら顔を上げる。


ソラは静かに彼女を見つめた。


次の瞬間。

深い茶色だった瞳が、紫とも紅ともつかない妖しい色へとゆっくり染まっていく。


そして彼は、一つの言葉を口にした。

その場にいた誰一人として意味を理解できない言葉。

いや、本当に声として発せられたのかさえ疑いたくなるような、不思議な響きだった。


セルリナの肩と背中を這っていた枝は、その瞬間ぴたりと成長を止めた。

それどころか、少しずつ元へと縮み始める。


呼吸は次第に落ち着き、苦痛に歪んでいた表情も少しずつ和らいでいった。


ジャスミーヌはすぐに落ちたショールを拾い上げ、広げ直してから、再び柔らかな布でセルリナの身体を包み込む。


「少し進行しているみたいね。」


ジュリアが立ち上がった。


「急いで薬を用意するわ。アンナ、一緒に調合をお願い。」


「ジャスミーヌさん、住まいに置いてある赤い花びらを浸した水を取ってきてもらえる?」


全員が席を立ち、それぞれ動き始めた。


やがて円卓のそばには、ソラとセルリナだけが残る。

ソラは彼女を近くの寝椅子へと寝かせ、自分はその隣の椅子に腰を下ろした。


彼は再び、セルリナには理解できない言葉をいくつか紡いだ。

今度は静かな空間だったからこそ、セルリナははっきりと感じた。


ソラが言葉を発した、その瞬間。


空気そのものが変わったのだ。

何かが、そこを通り過ぎた。


それは視界には現れなかった。

けれど、確かにそこに「存在していた」と分かる。


ほんの一瞬だけ。

世界は完全な静寂に包まれた。あまりにも不自然な静けさだった。

普段なら聞こえるはずの、ごく僅かな環境音さえ消え失せていた。


セルリナの髪に咲いていた紫色の花は、一輪、また一輪と散り落ちていく。

新しい花は、もう咲かなかった。


背中の枝や歪んだ紋様も急速に縮み始める。

先ほどまでの焼けつくような痛みとは違い、今度はくすぐったいような感覚だけが残った。


「少なくとも、今夜までは持つはずだ。」


ソラはそう言った。


「ありがとうございます!」


セルリナは目を丸くしながら、自分の身体に起きた変化を見つめた。

寝椅子へ横になり直したあと、彼女はふと、一つの疑問を思い出す。

ずっと聞きたかったのに、機会がなくて聞けなかったことだった。


長い沈黙の末、彼女は恐る恐る口を開く。


「もし……ジャスミーヌが今夜の儀式を手伝ってくれたら……」


「何か罰を受けたり……報いを受けたりは、しないのでしょうか?」


心配そうに尋ねる。


もしジャスミーヌに何か悪いことが起きるのなら、自分はいつでも儀式を止めるつもりだった。


「罰? もちろん、そんなものはないよ。」


ソラは意外そうに目を瞬かせた。


「私は……復讐したいんです。私をこんな姿にした人たちにも、同じ苦しみを味わってほしい。」


「でも……それは、やっぱり悪いことですよね?」


「だから?」


ソラは小さく笑った。


不安そうなセルリナを見つめながら、穏やかな口調で続ける。


「悪いことをしたからといって、報いなんてものは来ない。」


セルリナは目を見開いた。


そんな答えが返ってくるとは思ってもいなかった。


「君たちの身体に植え付けられた《羊の花》もそうだ。ディマン王国と華唐国では、この商売が何年も続いてきた。それでも、酷い目に遭った人間なんて、ほとんどいない。」


「別の世界から人を攫い、戦わせ、魔法を使わせる。そんなものも紛れもない悪だ。それでもディマン王国は、僕たちの屍の上に立ちながら、今もなお栄えている。」


「だから安心していい。ジャスミーヌに何かが起こることはない。」


「宗教の指導者なら、もっと善悪とか、因果応報とか……そういう話を長々とするものだと思っていました。」


「豊穣の女神は、そういう神じゃない。」


ソラは静かに首を振った。


「僕たちは、自分たちの信念を強くするために女神を信仰している。そして、その信念を胸に、最後まで抗い続けるんだ。」


セルリナは学校で受けた宗教の授業を思い出した。

教わった内容とは少し違う気もしたが、不思議と気にはならなかった。


「……ジャスミーヌから聞きました。」


セルリナはどこか慌てたように、そして懇願するように言う。


「あなたは、リタール王国で、とても大切な立場にいるそうですね。」


「もしこれからジャスミーヌがリタール王国で暮らすことになったら……きっと守ってくださいますよね?」


「もちろん。」


ソラは真剣な表情で頷いた。


「彼女に悪いことは起きませんよね?」


「ジャスミーヌは、これから僕の大切な教え子になる。できる限りのことはする。」


「実は……」


セルリナは少しだけためらった。

その視線は、無意識のうちにソラの左手の小指へと向けられる。


乳白色の指輪は、美しかった。

だからこそ、胸の奥に言いようのない寒気が走る。


あの質感。

あの繊細な紋理―。


彼女は口にはしなかった。

―あれは、骨を削って作られた指輪だ。


「私たちの家には、ディマン王家からの賠償品が届きました。その中には、ヴィクトリア側妃の嫁入り道具だった宝飾品も含まれています。本当は、私が死んだあとジャスミーヌに渡そうと思っていました。でも……もしかしたら、あなたの方が必要なのではないかと。」


「いや、それはそのままジャスミーヌに渡してあげて。」


セルリナは首を横に振る。


「私の家は代々、宝飾商を営んできました。宝石や装飾品の素材も、意匠も、人より詳しいつもりです。」


「ヴィクトリア側妃が賠償として送ってきた宝飾品の中には……リタール王国の王家の紋章が刻まれたものが、いくつか混じっていました。」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。