戦場に残る歌
夜の帳が下りても、野営地にはまだ大半の遺体が手つかずのまま残されていた。
白布に包まれた亡骸が、一体、また一体と野営地の外縁に整然と並べられていく。
丸一日かけて作業を続けても、身元を確認できたのは三分の一にも満たなかった。
その事実は、野営地全体の士気を大きく落としていた。
夕食時、誰が言い出したのか、凱旋の日まで取っておくはずだった酒樽を開けようという話になった。
今日一日で経験した出来事は、あまりにも重すぎた。
少しでも酒の力を借りなければ、とても受け止めきれない。
本来なら、錆鉄の冒険者ギルドの協力を得ながら数日かけて森を調査し、魔物の王の行動範囲を把握したうえで討伐に臨む予定だった。
その酒は、本来なら勝利の宴で開けられるはずのものだった。
しかし、本来は最後に到着する予定だった王家の代表は、ジェイド王子の独断によって前倒しで姿を現し、その結果、すべての計画は水泡に帰した。
生き残った兵士たちの間では、ジェイド王子の噂が絶えなかった。
身勝手に森へ踏み込み、魔物の王を刺激したことへの怒りだけではない。
王子は精神に異常をきたしたのではないか、と囁く者までいた。
王子は、自分が森へ入ったのは魔物の王の弱点を知っていたからだと主張していた。
その弱点は、親密すぎる侍女が見た予知夢によるものだったという。
だが、それは魔物の王の真の弱点ではなかった。
日輪の勇者は生き延び、その侍女は無惨な最期を森で迎えた。
「風向きが変わり始めているな」
ソルが静かに呟いた。
「以前から、毛家と王家の対立が噂されていた。だからこそ、皇太子殿下は、これまで重用されず、母方の一族もすでに没落したジェイド王子をここへ送り込んだのかもしれない。……だが、その駒も無残に失敗した」
その傍らで、これまで黙っていた軍医のヘルベルが酒杯を置いた。
魔物の王が暴れ回った際、彼は一人でも多くの兵を救おうと奔走したが、その最中に吹き飛ばされ、骨を脱臼してしまった。
すでに整復され、鎮痛の魔法と薬草も施されていたが、今でも足を引きずって歩いている。
ヘルベルは古い家柄の出身だった。
爵位こそ高くないものの、一族は代々、王宮の内務を担ってきた家系である。
「そうとも言い切れません」
ヘルベルは首を横に振った。
「ジェイド王子の派遣が決まったとき、第二側妃殿下やその派閥から反対の声は聞こえませんでした。もしかすると、最初から失敗することを見越していたのかもしれません。……あるいは、魔物の王に重傷を負わされることさえ期待していたのかも」
「情勢は荒れるな……」
ソルは深く息を吐いた。
ヨウタは黙ってその話を聞いていた。
彼の頭にあるのは、神から渡された死の名簿に記された残りの名前だけだった。
混乱が大きくなるほど、自分には都合がいい。
ディマン王家の内部で権力争いが激しくなればなるほど、自分のように長年「兵器」として扱われてきた日輪の勇者へ目を向ける者はいなくなる。
その隙に、一人ずつ始末すればいい。
しばらくすると、ヘルベルは立ち上がり、軟禁されているジェイド王子の天幕へ向かった。
眠っている王子の容体を確認するためだった。
その場には、ソルとヨウタだけが残った。
二人は焚き火を囲み、酒を飲みながら、ぼんやりと歌を口ずさむ兵士たちを眺めていた。
炎に照らされた若い兵士たちの顔は、たった一日しか経っていないというのに、何年も歳を重ねたように見えた。
少しだけ大人になり、それ以上に脆くなっていた。
先ほどヨウタに話しかけてきた三人の若い兵士は、二巡目の酒ですっかり酔いつぶれ、互いにもたれ合って眠っていた。
まるで疲れ果てた子どもたちのようだった。
王子の天幕から戻ったヘルベルは、片足を失った兵士の傷を診始める。
兵士は酒に酔い、仲間の胸に顔を埋めながら、赤子のように声を上げて泣いていた。
昼間はずっと気丈に振る舞い、一滴の涙も流さなかった男だった。
白布を掛けられた遺体を黙って見つめる者もいる。
長い沈黙のあと、誰かが静かに歌い始めた。
この野営地へ来たばかりの頃は、若い冒険者たちと肩を組み、歌い、踊り、大騒ぎしていた歌だった。
だが今は、杯を重ねるたび、その歌声は少しずつ低く、重くなっていく。
愛する人のもとへ小指を届ける兵士の歌は、この夜だけは、胸を締めつけるほど悲しく響いていた。
「俺の小指を切り落とし 戦衣に包み
遠い故郷へ持ち帰り 愛する人へ届けてくれ――」
「知っているか」
不意にソルが口を開き、ヨウタは少し肩を震わせた。
気づけば、ソルの周囲には空になった酒杯がいくつも転がっている。
頬は真っ赤に染まり、焦点の定まらない目で、ろれつも怪しくなっていた。
完全に酔っている。
「レインってさ……うっ……」
「……みんなが言うような、昔から聞き分けのいい子じゃなかったんだ」
―ああ、酔っ払いが昔話を始めるやつか。
ヨウタは内心ため息をついた。
正直、他人の亡くなった家族の思い出話にはあまり興味がない。
とはいえ、ソルには将軍である叔父がいる。
今後利用できる相手かもしれない。
そう考え、ヨウタは適当に相槌を打ちながら聞くことにした。
どうせ「弟は昔かわいかった」とか、「実はいたずら好きだった」とか、その程度の話だろう。
酔っぱらいというものは、最後にはたいていそんな話をするものだ。
「小さい頃、あいつはニンジンが大嫌いでさ。母さんがケーキにしても、ジュースにしても、絶対に口をつけなかった」
「はは、それはかわいいですね」
「でも叔父さんの勧めで軍に入ってからは違った。あんな場所じゃ、好き嫌いなんて言ってられない」
「あとで『ニンジンも、食べてみたらそんなにまずくなかった』なんて言ってたよ」
「なるほど」
その気持ちはヨウタにもよく分かった。
野営を続け、何日も敵と消耗戦を繰り返していれば、食べ物があるだけでもありがたい。戦場では、好き嫌いを言う資格など誰にもない。
「子どもの頃、あいつは俺を騙して、『雷の魔法は空の雷と共鳴するから、そのうち雷に吸い上げられて空の上へ連れていかれる。もう家には帰れない』なんて言ってたんだ」
「それからしばらくは、雷が鳴るたびに外へ出るのが怖くてさ。本当に連れていかれると思ってた」
その話に、ヨウタは少し興味を引かれた。
―ソラが好きそうな話だ。
どこか宇宙的恐怖を感じさせるその内容は、二人で少なくとも三回は観た映画『ザ・ヴォイド 変異世界』を思い出させた。
「でもな……」
ソルは一度笑った。
その笑みは、すぐに消えた。
「最後に、あいつはまたその話を持ち出したんだ。『もし指輪を届けなかったら、お前を雷で空の向こうの……』」
ソルは眉を寄せ、記憶を探る。
「……なんだったかな。変な言葉だった。『虚空』……だったか?」
「『空の向こうの虚空』へ連れていって、永遠にさまよわせてやる、死ぬこともできずにな」
ヨウタは眉をひそめた。
「妙な呪いですね。言葉遣いも、あまり聞きません」
「だろう?」
ソルは苦笑した。
「たぶん、豊穣の女神の信仰と関係があるんだろう。レインが愛していた相手は、どうやらあの女神の熱心な信徒だったらしいからな」




