魔物の王、最後の咆哮
しばらくの間、誰一人として口を開かなかった。
息苦しいほど重い空気の中、森に響くのは魔物の王の荒い呼吸音と、レインの身体で時折弾ける小さな金色の雷光だけだった。
ロイはジェイド王子の罵声を無視し、植物の壁を解除した。
植物には負傷者を、まだ戦える者たちの後方へ運ばせる。
これからの戦いに備えるため、彼は植物魔法へ全神経を集中させなければならなかった。
新たな巨大な蔓が急速に成長する。
ロイはそれを操ってタチバナさんのもとへ渡し、魔物の王へ再び巻きつかせ、巨体を拘束しようとした。
「待て!」
不意に、ジェイドが叫んだ。
「僕は魔物の王の弱点を知っている!」
ほとんど全員が、一瞬だけ手を止めた。
「ふざけるな」
ヨウタが嫌悪をあらわに眉をひそめる。
「本当だ! 本当に知っているんだ! 魔物の王の弱点は毛皮だ! あの毛皮を剥ぎ取れば、弱いただの魔物に戻る!」
ジェイドは縋るように訴えた。
「さっき僕たちが森へ入ったのも、そのためだ。眠っている隙に、こっそり毛皮を剥ぎ取ろうとしたんだ!」
「その毛皮なら、もうとっくに焼け腐っている」
ヨウタは冷たい目で彼を見ただけだった。
「殿下。他にも情報があるなら、さっさと言ってください」
「本当なんだ!」
エイデンは、ジェイドの瞳孔が大きく開き、呼吸も脈拍も明らかに乱れていることに気づいた。
ジェイドはすでに自制を失っていた。
この王子はもう、他人を説得しようとしているのではない。自分が嘘をついていないと、必死に証明しようとしているだけだ。
ヨウタにこれ以上刺激しないよう声をかけようとした瞬間、ジェイドが再び叫んだ。
「僕の言っていることは全部本当だ! 話を聞け!」
「僕は王子なんだぞ!」
「マリーが教えてくれたんだ! 彼女は夢の中で、一冊の本を読んだと言っていた――」
「その本の題名は『日輪勇者最後の戦い』だ!」
「そこには、お前が魔物の王の毛皮に隠された秘密を見抜き、その毛皮を剥ぎ取って殺したと書かれていた! ただし、お前も一緒に死んだんだ!」
ジェイドの言葉に、その場にいた全員が固まった。
「何を言っているの。俺は一度も――」
ヨウタが言い終えるより早く、異変は起きた。
後方にいた魔物の王は、自分を包囲していた人間たちの間に生じた動揺を見逃さなかった。
誰もがほんの一瞬、自分から注意を逸らしたことにも気づいていた。
酸に侵食された蔓は、すでに脆くなっている。
さらに頭部が崩壊したことで、拘束には大きな隙間が生じていた。
魔物の王が突如として全身に力を込める。
蔓が不穏な軋みを上げ -ついに拘束が破られた。
「……王族……!」
「うわあああっ!」
迫ってくる巨大な怪物と、その頭上に突き刺さったおぞましい剣を見たジェイドは、恐怖に叫び声を上げた。
そして、皆に背を向けて魔法へ集中していたロイを、力任せに突き飛ばした。そのまま一度も振り返らず、森の反対側へ転がるように逃げていく。
ロイはすでに大量の魔力を消耗していたうえ、ジェイドの言葉に注意を乱されていた。
完全に無防備な状態で突き飛ばされ、そのまま地面へ倒れこむ。
魔物の王はその隙を逃さず蔓を掴み、ロイごと自分のもとへ引き寄せた。
「会長を放して!」
タチバナさんが叫ぶ。
彼女は全力で蔓を後方へ引いた。
だが、蔓は切れなかった。
代わりに鋼線のように魔物の王の腐った肉へ深く食い込み、その身体を横断するように切り裂いていく。
魔物の王は激しい悲鳴を上げた。
それでも止まらない。
圧倒的な力によって、蔓に絡まったロイは魔物の王の前脚のそばまで引きずられていった。
「……なぜ……」
「……邪魔をする……」
「……なぜ……王族を守る……」
タチバナさんは腰の剣を抜き、魔物の王へ飛びかかった。
全身の力を込めて剣を振り下ろし、その足の一本を斬り落とす。
だが、途方もない力を使い果たした彼女は、その場に倒れ込み、激しく息を切らした。
それでも魔物の王の動きは止まらなかった。
怪物が動くたび、ロイの身体は地面に引きずられていく。
ロイは身体を丸め、両腕で頭部を守ろうとした。
しかし、激しく引き回されるうちに、その腕からも少しずつ力が抜けていった。
岩へ衝突するたび、彼の身体が大きく跳ねる。
それでもロイは、一度も悲鳴を上げなかった。
身体を守っていた外套は、とっくにぼろ布となって後方へ取り残されている。
衣服も地面との摩擦で引き裂かれ、大小さまざまな傷が全身に刻まれていった。
このままでは、ロイは間もなく苦しみながら死ぬ。
「父さん!」
エイデンはノーマンの腕を掴んだ。
ノーマンは即座に息子の意図を理解する。
片手でエイデンを、もう一方の手でヨウタを掴むと、加速魔法を発動し、一気に魔物の王のそばまで駆け抜けた。
ヨウタの両手から、紫色の炎が噴き出す。
周囲に誰がいるのか確認すらせず、紫の火炎が瞬く間に辺り一帯へ広がった。
魔物の王の腐った皮膚と、わずかに残っていた毛皮へ火が燃え移る。
怪物は凄まじい悲鳴を上げた。
しかし直後、全身から大量の膿があふれ出し、燃え上がる火勢を急速に弱めていく。
ついには、炎の大半が消し止められてしまった。
激痛に耐えかねた魔物の王は蔓を掴み、そこに巻き込まれていたロイを高々と持ち上げる。
そして、そのまま力任せに地面へ叩きつけようとした―。
魔物の王がロイを叩き落とそうとした、まさにその瞬間。
鋭い咆哮にも似た音が、森全体を切り裂いた。




