腐敗は森より現れる
「……ディマン王国の……王族……?」
魔物の王は向きを変えた。
腐り落ちかけた四肢で巨体を持ち上げると、ジェイドのもとへ這い寄っていく。
先ほどまでとは比べものにならないほど速い。
巨体が動くたび、先ほど地面へ落ちてもなお蠢いていた白い蛆虫が容赦なく踏み潰され、湿った肉塊を押し潰すような不快な音が辺りに響いた。
血と肉片、粘液と膿が入り混じったぬめる跡の上を、再びその巨体が滑るように進んでいく。
まるで爪でガラスをゆっくり引っかくような耳障りな音が、森中へ響き渡った。
「放て!」
ヨウタが命じた。
しかし、兵士たちはすぐには動かなかった。
彼らは先ほど魔物の王が人間の言葉を話したことに完全に動揺していた。
互いの顔を見合わせるばかりで、誰も最初の一本を放とうとしない。
それは、彼らが今まで学んできた「魔物の王」とはあまりにも違っていた。
教科書に描かれていたのは、理性なき獣。
ただ破壊するだけの存在。
決して、人の言葉を話し、明確な復讐の意思を持つ怪物ではなかった。
「王子が危ない! 放て!」
ヨウタが再び叫ぶ。
紫の炎をまとった矢が、一斉に放たれた。
魔物の王は身体をひと振りし、近くまで飛来した矢の何本かを弾き飛ばす。
残った矢も腐肉へ突き刺さった瞬間、全身を覆う膿に足場を奪われるように、一矢、また一矢と滑り落ちていった。
背中で炎が燃え続けていても気にも留めず、ただジェイドだけを目指して這い進む。
鼻先をわずかに動かす。
まるで匂いを確かめるように。
「王族……王族……」
その瞬間。
ジェイドと護衛の遺体の前方で、踏み潰されていた低木や折れた木々が突如として勢いよく芽吹き始めた。
植物は瞬く間に絡み合い、一枚の巨大な壁となって二人を覆い隠す。
ロイの植物魔法だった。
橘さんは荷物の中から魔道具を取り出すと、それをジェイドの前方へ驚異的な腕力で投げ放つ。
魔道具は空中で展開し、透明な魔法障壁となって二人を包み込んだ。
魔物の王の巨体が植物の壁へ激突する。
轟音。
地面までもが大きく揺れる。
膿に触れた枝葉は瞬く間に黒く枯れ落ちる。
しかし次の瞬間には、新たな植物が地面から生え、再び壁を補強していた。
その奥では魔法障壁が衝撃を受け止め、微動だにせず立ちはだかっている。
一方その頃。
ロイの額には汗が滲み始めていた。
橘さんは剣を抜き、彼の前へ立って護衛に入る。
「王族!」
「王族!」
「王族ぅぅぅ……!」
魔物の王は怒り狂ったように咆哮し、さらに激しく植物の壁へ体当たりを繰り返す。
塞がりかけていた傷口が次々と裂け、血液と蛆虫が飛び散った。
ヨウタの指揮のもと、炎をまとった矢が何度も何度も魔物の王へ降り注ぐ。
続いて、ソールの雷撃が空気を引き裂いた。
黄金の雷光が腐りきった巨体へ突き刺さる。
炎が皮膚を焼き、
雷が腐肉の奥で炸裂する。
それでも。
魔物の王は倒れなかった。
動きすら鈍らない。
むしろ怒りを増したように天を仰ぎ、甲高い叫び声を響かせる。
「王族は……ここだぁぁぁ!」
その叫びに応えるように。
森の奥から無数の足音が響いてきた。
一体。
十体。
数十体。
そこでエイデンは数えるのをやめた。
―ああ……。
「魔物の王」って呼ばれてるくらいなんだから、魔物くらい従えててもおかしくないよな。
そんな場違いなほど冷静なことを考えながら、エイデンは槍を構えた。
森の中から、大小さまざまな魔物たちが次々と飛び出してくる。
そのどれもが王と同じように腐敗していた。
身体には木の根が絡みつき、錆びついた武器が突き刺さったままの個体もいる。
動くたびに泥や砂利を撒き散らしながら、腐り果てた魔物たちはヨウタたちへ襲いかかった。
兵士たちは一気に陣形を崩され、慌てて武器を構え、魔物との乱戦へ突入する。
エイデンは必死に頭の中を探った。
何か。
何か役に立つ知識はなかったか。
落ち着け、エイデン。
四人の中で一番学歴が高いのはお前だ。
父さんと母さんが払ってくれた学費を、今こそ回収する時だろ。
考えろ。
何でもいい。
役に立つことを。
だが最初に浮かんできたのは、ずっと昔のある午後の記憶だった。
「なんで君たち、そんなに『28日後...』が好きなの?」
ソラは苦笑しながら額を押さえる。
「あれはゾンビ映画じゃないよ。人間の絶望を描いた物語なんだ。」
―今、それを思い出して何になるんだよ!
エイデンはその役にも立たない記憶を頭の片隅へ追いやり、雷魔法や雷の勇者について思い返そうとする。
別の記憶が、不意に脳裏へ浮かび上がった。
「ソラさん、この前ロイ会長が話してくれた雷の勇者の英雄譚を、もう一度聞かせてください!」
「いや、僕は別に聞きたくないよ」
ティムは首を横に振った。
「ロイの話は、本当に……」
ソラは少し困ったように笑った。
「レインのやつは、全然あんな人間じゃなかったんだよ」




