腐臭と絶望の王
エイデンは、先ほどからずっと疑問に思っていた。
―魔物の王が姿を現しているのに、なぜディマン王国軍はまだ攻撃を始めないんだ? まさか、俺たちを待っていたわけじゃないよな?
その答えは、すぐ目の前に現れた。
倒れた護衛の、無残にねじ曲がった死体が、不意にぴくりと動いた。
違う。
動いたのは死体ではない。
切断された腕の下から、血と肉片にまみれながらも、なお鈍い光沢を放つ銀色の髪がのぞいた。
そして――
青白い人の顔が、ゆっくりと死体の下から這い出してきた。
ジェド王子だった。
紫色の瞳は焦点を失い、大きく見開かれたまま、辺りをさまよっている。あまりの恐怖に、すでに正常な判断力を失っているようだった。
全身は護衛の骨片と赤黒い血肉にまみれている。
護衛は最後の力を振り絞り、自らの身体で王子をかばったのだろう。
魔物の王の後方には、さらに二つ、人の形を失った物体が転がっていた。
骨と肉がぐちゃぐちゃに混ざり合った、人間ほどの大きさしか残っていない肉塊だった。
「……何があった?」
ノーマンが人だかりの中央にいたヨウタのもとへ駆け寄り、焦った声で尋ねる。
「あの馬鹿王子と護衛どもが森へ入り込んで、魔物の王を目覚めさせた。」
ヨウタは苛立ちを隠さず答え、巨大な黒い影を睨み続けた。
「あの馬鹿でも、一応は王子だからな……。」
「……本当は放っておきたい。でも、助けるしかない。」
助けなくてもよくない?
エイデンは心の底からそう祈った。
だが、それが不可能なことも理解していた。
リタール王国のヘクトール伯爵夫人の息子と恋人が、冒険者任務の最中にディマン王国の王子を見殺しにした――そんな話になれば、外交問題になるのは目に見えている。
「魔物の王を引き離すか?」
ロイが提案した。
「俺とソル大佐で魔法を撃ち続ける。兵士たちにも援護してもらって、できる限り王子から引き離す。」
「魔物の王が五メートル以上離れたら、お前たちが救出してくれ。」
ヨウタは短く役割を割り振った。
「ソル大佐直属の『雷霆隊』がお前たちの支援に入る。遠慮なく指揮してくれ。」
胸当てに稲妻の紋章を刻んだ兵士たちが、一歩前へ進み出た。
役割が決まると、全員がすぐに動き始めた。
ソルの両手から雷光が迸り、稲妻が弾けるような轟音が静まり返った野営地に響き渡る。
その音を聞いた瞬間、魔物の王の巨大すぎる頭部が、人間ではあり得ない不気味な角度でゆっくりとソルの方へ向いた。
そのままソルを見据え、巨体を支える四肢を這わせながら、ゆっくりと前進を始める。
その後ろには、ぬめりを帯びた一本の跡が残った。
足跡ではない。
巨大なナメクジが這ったあとに残る粘液のようだった。
ただし、その中に混じっているのは、血液と膿、そして無数に蠢く白い蛆だった。
ヨウタは兵士たちに命じ、盾を地面へ並べさせると、弓兵たちは矢をつがえ始めた。
ソルの両腕に絡みつく雷光を見たロイが、小さく目を見開く。
「……雷魔法?」
「ああ。他の兵士から聞いた話だけど、ソル大佐は十六年前に命を落とした『雷の勇者』の兄らしい。」
エイデンが答えた。
作戦はすぐにまとまった。
魔物の王が五メートル以上離れたら、ノーマンが加速魔法でタチバナさんを連れてジェド王子のもとへ飛び込み、王子を救出する。
その間、ロイが植物魔法で二人を援護し、エイデンと兵士たちが迎撃を担当する。
周囲では雷霆隊の兵士たちが腐臭にあてられ、顔を真っ青にし、中には嘔吐する者までいた。
それでも誰一人持ち場を離れず、武器を握り締めていた。
すべて順調に進んでいるように見えた。
ヨウタは弓兵たちの矢へ炎を灯す。
普通の炎とは違う。
彼の魔法の炎は青紫色に燃え、その外縁だけが赤く輝いていた。
魔物の王はなおもソルの雷撃へ興味を引かれたまま、ゆっくりと歩き続ける――
「おい! 何をしているんだ! 早く助けろ!」
誰も予想していなかった。
その瞬間、ジェドが意識を取り戻した。
彼は必死に、自分へ覆いかぶさっている護衛の死体を押しのけようとした。
しかし恐怖で力加減も分からず、死体をどけるどころか、ねじ曲がった手足へさらに絡みついてしまう。
護衛の首が、ぼきり、と嫌な音を立てて折れ、その首がだらりとジェドの目の前へ垂れ下がった。
「ひっ……!」
ジェドは悲鳴を上げ、その首を払いのけようと肩を掴む。
だが、肩の肉は腐りかけており、掴んだ瞬間、ごっそりと剥がれ落ちた。
「いやあああああっ!」
ジェドは絶叫した。
泣き叫び、罵声を浴びせ、懇願し、周囲へ命令する。
「何でぼさっとしているの! 私は王太子の長男だ! 早く助けろ!」
「命令だ! 今すぐここから引きずり出せ! さもないと全員斬り捨てるぞ!」
その瞬間だった。
魔物の王が、ぴたりと動きを止めた。
腐り落ちたぶよぶよの巨体が、まるで人間が背筋を伸ばすように、ゆっくりと起き上がる。
そして次の瞬間。
腐敗し、膨れ上がったその肉体の奥底から、声が響いた。
しゃがれ、濁り切った声。
それでも間違いなく、人間の男の声だった。
「……ディマン王国の……王族……?」




