帰る場所(Side:マリー)
二つの世界の違いを知ってから、マリーはようやく一つのことを理解した。
ジェイドは、ジェイ王子ではない。
同じ母親を持ち、どこか面影の似た容姿をしていることを除けば、ジェイド王子と前世のジェイ王子には共通点らしい共通点はなかった。
ジェイ王子は決して弱さを見せなかった。
けれどジェイドは、泣けば真っ先にマリーのもとへ駆け寄ってくる。
ヴィクトリアが何を目的としていたのかは分からない。マリーは、おそらく他の政敵から命を狙われることを避けるためだろうと考えていた。
ヴィクトリアはジェイドを本物の王女として育て上げようと、並々ならぬ執念を注いでいた。
二日に一度は王宮から教師が訪れ、貴族令嬢として必要な礼儀作法や教養、さまざまな技芸を教えていた。
普段のジェイドは、まるで気品ある小さな王女そのものだった。
しかし、同い年のマリーの前でだけは、年相応の子どもらしい一面を見せる。
当時のマリーは、それがただの子どもらしさなのだと思っていた。
前世の記憶を取り戻したマリーは、意識してジェイドに優しく接するようになった。
―彼を利用するため。
彼が成長し、本来あるべき王子の地位へ戻ったとき、その傍らに仕える侍女である自分も、より多くの栄誉を手にできる。
そう考えていたのだ。
ジェイドのためにクッキーを焼き、壊れたぬいぐるみを縫い直し、本を読んで聞かせる。
そんな日々を重ねるうちに、ジェイドの態度は目に見えて変わっていった。
少なくとも、マリーにはそう見えた。
まるで、生まれたばかりの雛が、殻を破った瞬間に最初に目にした相手を親と思い込むように。
ジェイドは、どこへ行くにも彼女を追いかけるようになった。
何度か部屋へ戻ると、彼はマリーの机の前に座っていた。
机の上には、開いたままのノート。
ジェイドは叱られることを恐れる子どものような目で、恥ずかしそうに彼女を見上げていた。
またある日は、一人で町へ情報を集めに行こうと馬車へ乗り込むと、ジェイドがぬいぐるみを抱えたまま荷台へ隠れていたこともある。
「ぼくも一緒に行く!」
そう言って笑うジェイドを見て、マリーは「寂しがり屋なのだ」と微笑ましく思っていた。
マリーは何度も、目の前のジェイドを前世のジェイ王子と重ね合わせてしまう。
けれど、そのたびに気づくのだ。
二人は、まったく別の人間なのだと。
前世のジェイ王子は常に完璧な仮面を被り、こんなにも無防備で弱々しい姿を見せたことは一度もなかった。
ましてや、寂しいからという理由で強がりながら彼女について来ようとすることなど、あり得なかった。
最初は利用するつもりだった。
けれど、いつからだろう。
ジェイドのために、一番おいしそうなクッキーを残してしまう。
夜中に壊れたぬいぐるみを縫い直してしまう。
たった一言、「ありがとう」と言われただけで、一日中嬉しい気持ちになってしまう。
気づいたときには、「利用」という名の感情は、もう別のものへ変わっていた。
彼は本来、王太子の長男として生まれた高貴な王子であるはずだった。
それなのに、誰からも顧みられない王女として育てられている。
マリーは彼を守りたかった。
支えたかった。
そして、いつか誰よりも高い場所へ送り届けたかった。
けれど、その頂に立つ者の隣へ、一介の子爵令嬢が立つことは難しい。
まして今の「家族」は、彼女を歓迎していなかった。
マリアンナとして目覚めてから初めて実家へ帰った日、フィート子爵家の人々はすぐに異変へ気づいた。
「……お前は、マリーじゃない。」
その一言で、応接間は静まり返った。
マリーが屋敷へ入り、客間へ案内されるよりも早く、フィート子爵はそう言い放ったのだった。
「マリアンナ」の立ち居振る舞いも、言葉遣いも、幼い頃から甘やかされて育った子爵令嬢のものではない。
洗練された上級貴族そのものだった。
子爵はヴィクトリアが娘を別人へすり替えたのではないかと疑ったらしい。
彼女が以前使っていた部屋は閉ざされ、新たに客室だけが与えられた。
「これ……あなたの大好物だったでしょう……?」
子爵夫人は粗末な菓子を震える指で示しながら、涙を流した。
前世の記憶を取り戻った今となっては、油と砂糖ばかりの粗雑な菓子を口にすることなど、とてもできなかった。
「新しいドレスですって? うちは毎年、去年のドレスを仕立て直しているのよ。襟や袖を変えれば、誰にも気づかれないわ。」
姉は帳簿をめくりながら眉をひそめる。
「今年は領地の収穫が良くなかったの。税も軽くしなければならないし、新しいドレスは来年まで我慢しましょう。」
「戻ってこい。第一側妃に何を吹き込まれたのかは知らないが、うちは第二側妃派だ。どちらにも良い顔をしていては、ろくな結末にならないぞ。」
兄は下級貴族らしい粗野な口調で、彼女を叱責した。
その日以来、マリーがフィート子爵家へ戻ることはなかった。
あそこは、彼女の家ではない。
一度たりとも。
あそこはマリー・フィートの家であって、マリアンナ・ブラウンティの帰る場所ではなかった。




