誰も知らない山の呼び声
朝からというもの、エイデンは何をするにも左手しか使わなかった。
朝食を食べるのも左手。
荷物を持つのも左手。
家の扉を開けるのも左手。
玄関の扉を閉めるのも左手。
ほとんどすべての動作を、左手だけでこなしている。
「それ、ただのブレスレットだよな? 婚約指輪じゃないんだぞ?」
ノーマンがとうとう呆れたように言った。
出発してからというもの、エイデンは何度も何度も、わざとブレスレットを皆の目に入るように見せつけていた。
「別に? 今日はなんとなく左手を使いたい気分なだけ。」
エイデンは何食わぬ顔で左手をひらひらと振った。
「そうだ、ギルドマスター。魔物の王についての資料、読み終わりました。」
そう言って左手で書類をロイへ差し出す。しかも手首を少し回して、ブレスレットがよく見えるように。
ロイはそのブレスレットを一瞥すると、無表情のまま書類を受け取った。
「ふん。ヒルダからもらったものなら、私は全部大切にしまってある。」
「どこかの誰かみたいに、ブレスレット一本もらったくらいで世界中に見せびらかしたりはしない。」
ノーマンが鼻で笑う。
「へぇ。」
エイデンは何気ない様子で――もちろん左手を使って――ノーマンの肩へ手を置いた。
ノーマンは深いため息をつく。
「お前が八歳の頃だったかな。ヒルダが紫晶花の飾りが付いた、とても綺麗な指輪を私に贈ってくれたんだ。」
「ところがお前、その指輪を持って川へ遊びに行って、見事になくした。」
「えっ? そんなことあったっけ?」
「あったわよ。」
橘さんが笑いながら答える。
「大変なことをしたって気づいて、あなたはずっと泣いてたし、ノーマンさんも指輪が見つからなくて泣いてたし、私たちはどっちを先になだめればいいのか分からなくてね。」
「みんなで川まで探しに行ったけど、結局見つからなかったの。」
「そのあと見つかったんですか?」
「見つかった。」
書類に目を通していたロイが短く答えた。
「幸い、その場にティム殿下もいた。川へ着くなり、一目で指輪を見つけた。」
「本当に……?」
「本当だ。それ以来、私は高価な宝飾品を身につけて出歩くのをやめた。またお前がなくしたら困るからな。」
その思い出話を聞いて、エイデンは少し気まずそうに、そっと左手を引っ込めた。
ロイは目を細め、静かに未来のことを考えていた。
―エイデンとジャスミン。
―ティム殿下。
もしこれから先も、あいつらの子どもや孫、そのまた先まで面倒を見ることになるのなら……。
自分は一生、隠居などできないのかもしれない。
彼らは今、ディマン王国へ向かう鉄道車両に乗っていた。
窓の外を眺めながら、エイデンは以前授業で習った内容を思い出す。
鉄道車は、百年前に異世界からやって来た「鉄の聖女」が構想した乗り物だった。
その構想を子孫たちが受け継ぎ、改良を重ねた末に完成したのが現在の鉄道車である。炎の魔法で加護を施した燃料を動力とし、敷設された線路の上を、複数の車両を連ねて走る乗り物だ。
もっとも、鉄道車や、その後に鉄の聖女の子孫たちが開発した「鉄壁車」は、魔力粒子が乱れる場所では正常に動かなくなる。
そのため、多くの人々はいまだに魔物との交配種である馬に馬車を引かせる手段を選んでいた。
とりわけこの地域では、国境地帯に魔物があふれているため、ディマン王国とリタール王国を結ぶこの鉄道を利用する者は激減している。
今では多くの旅人が、安全を優先して船で海路を進むようになっていた。
時間はかかるが、そのほうがはるかに安全なのだ。
退屈そうに窓の外を眺めるエイデン。
列車はまもなくディマン王国との国境へ到着する。
窓の向こうには、リタール王国を取り囲む沈黙山脈の稜線が見えていた。
沈黙山脈。
リタール王国、ディマン王国、そしてアカハン地方にまたがる巨大な山脈である。
リタール側には鬱蒼とした不気味な森が広がり、アカハン側には雪に覆われた険しい山岳地帯が続いている。
百年前の国境画定の際、ディマン王国は両国の境に横たわる山岳地帯を意図的にリタール王国へ譲り、自らは肥沃な平原だけを手に入れた。
現在でも沈黙山脈は危険の象徴だった。
人類が立ち入るのは山麓だけであり、奥地へ踏み込む者はほとんどいない。
魔物の王や、その配下の魔物でさえ活動するのは山脈の外縁部まで。
勇者や軍勢に追われようとも、森の奥へ足を踏み入れることだけは決してなかった。
それでも、エイデンの幼なじみ―リタール王国の王太子ティムだけは、この山脈に強い興味を抱いていた。
「山が光ってる……みんなには見えないの?」
ティムはそう言っていた。
今回、ディマン王国からの緊急要請さえなければ、エイデンはティムとともに沈黙山脈の境界地域へ入り、地形調査を行う予定だった。
王家の護衛も同行している。
ティムなら大丈夫だろう。
エイデンがそう考えていると、ノーマンが口を開いた。
「エイデン。あとで勇者・陽太に会っても、口にしてはいけないことくらい分かってるな?」
「もちろん。空さんのことは話しません。」
エイデンは即座に答えた。
ロイは静かに目を閉じる。
そして、遠い昔から伝わる、あの古い言い伝えを思い返していた。
エリカ。
空。
そしてティム。
―異客との混血は、あるいは『虚の子』を生む。
―その者らは天女のごとき姿を持ち、修羅のごとき心を宿す。
―その瞳に映るものは、鏡の向こう側に隠された真実である。




