私は死んだはずだった(Side:マリー)
マリアンナは、たちまち混乱に陥った。
「え……?」
「どうして、私がここに……?」
信じられない思いで胸に手を当てる。
胸の奥では、心臓が規則正しく、力強く鼓動していた。
大きく息を吸い込む。空気に血の匂いはなく、肺が血で満たされることもない。
その当たり前の感覚が、あまりにも懐かしかった。
気づけば、マリアンナの頬を涙が伝っていた。
「私……死んだはずじゃ……」
視線を落とすと、床には戸惑いながら泣いている幼い子どもがいた。
その顔を見た瞬間、胸の奥から激しい怒りが込み上げる。
「……ジェイ王子? 私の仇……?」
「どうしてディマン王国にいるの!? しかも、その格好は何? まさかジェイソン国王がエリカ王妃にそそのかされて、自分の息子を人質として送り込んできたっていうの!?」
マリアンナは怒りに任せて駆け寄り、その頬を思い切り叩こうと手を振り上げた。
しかし――
「え……?」
自分の手が、異様に小さい。
戸惑いながら自分の身体を見下ろす。
そこにあったのは、小柄な子どもの身体だった。
粗末なメイド服に身を包んだ、幼い少女の身体。
その新しい肉体を認識した瞬間、別人の記憶がゆっくりと流れ込んでくる。
――マリー。
それが、この身体の持ち主の名前だった。
ヴィクトリアはこれまでずっと、別荘でソロモン王太子の長女――「ジェイド王女」を出産したと世間に公表していた。
ジェイド王女は、母親の腹心たちから完璧な淑女教育を受けて育てられている。
彼女に会った者は誰一人として疑わなかった。
実の父であるソロモン王太子でさえ、彼女を本物の王女だと信じ切っていたのだ。
マリアンナが前世の記憶を取り戻す直前まで、マリーは屋敷の床を磨いていた。
別荘にはほとんど使用人が残されていない。
ヴィクトリアは大半の召使いを連れて行き、この屋敷には年老いた侍女が一人、執事が一人、料理人が一人、そして子どもの世話役としてマリーだけが残されていた。
誰もが忙しく働いていた。
床掃除は十歳のマリーに任された仕事の中では一番楽な部類だったが、それでも幼い少女には酷な重労働だった。
息を切らしながらモップを動かしていると、不意に部屋の隅で人形遊びをしていた王女が窓の外を見つめた。
鮮やかな羽を持つ一羽の鳥が、窓辺に止まっていたのだ。
「あっ!」
王女は嬉しそうに立ち上がり、そのまま窓へ駆け出した。
そして勢いよくマリーにぶつかる。
「きゃっ!」
マリーは床へ倒れ込み、汚水の入ったバケツがひっくり返った。
半分近く残っていた汚水が、そのまま彼女の全身へ降り注ぐ。
怒りが込み上げた。
もともと泣いてばかりで何の役にも立たない王女が嫌いだった。
なのに、今度は自分の苦労まで台無しにした。
「全部あんたのせいよ! この役立たずの豚! ウジ虫! ゴキブリ!」
マリーは残っていた汚水を王女へ思い切り浴びせかけ、そのまま蹴り飛ばした。
王女は呆然と目を見開き――次の瞬間、大声で泣き始めた。
だが、すぐにマリーは青ざめる。
数日後にはヴィクトリア側妃が別荘を訪れる予定だった。
もし王女や誰かが今日の出来事を告げ口したら――。
マリーは慌てて王女の腕を掴み、寝室へ引っ張っていく。
せめて自分で着替えさせれば、少しは誤魔化せるかもしれない。
「何するの!? 離して!」
王女は泣き叫ぶ。
「うるさい! このバカ豚! あんたがバケツをひっくり返したせいでしょう!」
しばらく使用人として働いていたマリーは、同い年でも王女よりずっと力が強かった。
彼女は無理やり王女をベッドへ押し倒し、その服を脱がせ始める――。
そして下着を脱がせた、その瞬間。
ヴィクトリアが隠し続けてきた「秘密」は、ついに暴かれた。
王女は――王女ではなかった。
王子だったのだ。
家門の派閥が望んでいた通り、マリーはヴィクトリア最大の秘密を見つけ出してしまった。
あまりにも衝撃的な事実に、十歳の少女の意識は真っ白になっていく。
そして、その瞬間だった。
理由もわからないまま、マリアンナの意識がマリーの身体の中で目を覚ました。
自分はマリーという少女に成り代わったのか。
それとも、自分こそがマリーであり、前世の記憶を思い出しただけなのか。
その答えは、マリアンナにも分からない。
ただ一つ確かなのは――
自分は、もう一度生きる機会を得たということだった。
その歓喜が胸いっぱいに溢れる。
床で震えているジェイドをよそに、マリアンナは高らかに笑った。
「もう一度やり直せる……!
この人生では、ジェイド王子を存分に利用して、今度こそ幸せを手に入れてみせる!」
これが――
マリアンナ。
いや、今はマリー。
彼女とジェイド王子の物語が始まった日である。




