神は囁く(Side:ヨウタ)
訪問者たちが去ったあと、ヨウタは長椅子へ崩れ落ちるように腰を下ろした。
「……はっ」
乾いた苦笑が漏れる。
確かに、貴重な情報は手に入った。だが今日を境に、あちらもこれまで以上に自分を警戒するだろう。
天幕の中に、再び静寂が戻る。
そして、周囲から物音が消えると、あの声がまた聞こえてくるのだ。
「私のために、人を殺してくれ」
「この名簿に記された十人を殺せば、時間を巻き戻してやろう。君たちがこの世界へ召喚される前まで」
「君が失ったものは、すべてその手に戻る。もちろん、時が巻き戻れば、君が殺した十人も生き返る」
その声は自らを神と名乗り、これは神託なのだと告げた。
名簿の最初に記されていたのは、先ほどの会話でも話題に上ったヴィンソン・レイノだった。
あの日、神を名乗る声がそう告げた直後、ディマン国王から勅命が届いた。山岳地帯で民を苦しめる賊、ヴィンソンを討て──と。
本当に時間を巻き戻せるのなら。
ソラは自分の隣に座り、また妙なホラー映画について語っているだろう。
美波は寝殿の奥に閉じこもったりせず、凛の腕を引きながら、小さな声で甘えている。
凛も、凪も、生きている。
皆で高校を卒業し、大学へ進み、取るに足らないことで喧嘩をしながら、ごく普通の大人になっていく。
たった十人を犠牲にすれば、ヨウタはすべてをやり直せる。
これまでの年月で、彼が救った者は十人どころではない。
ディマン王国の命令に従い、各地で魔物を討ち、反乱を鎮圧してきた。
この世界のために、あれほど多くを犠牲にし、あれほど多くを失ったのだ。
ならば、これは自分が受け取って然るべき報酬ではないのか。
ヴィンソン・レイノは、死んで当然の男だった。
各国の犯罪組織と繋がりを持ち、闇へ転落した人間を平然と売りさばいていた。
男も女も、子供も老人も、人種さえ問わない。
金を払う者がいるのなら、ヴィンソンは望まれた人間を可能な限り調達した。
ここ二年ほど、ヴィンソンが特に大量に扱っていた商品が、「羊の花」と呼ばれるものだった。
華唐国に伝わる古い術法によって、若く美しい少女の体内へ花を植えつける。
花は少女の血肉を養分とし、脊髄を流れる液体を吸い上げ、最後には背中を突き破って、巨大な花を咲かせる。
華唐国では、食用にされる奴隷を「二本足の羊」と呼ぶ。
羊であるなら、人間ではない。
人間でないのなら、食べても構わない。
激しい戦闘の末、ヨウタはヴィンソンとその部下たちを捕らえた。
一対一で尋問していたとき、ヨウタはヴィンソンの口から驚くべき情報を聞かされた。
「お前はどこの国の出身だ? その顔立ちなら、日本人か韓国人か? 俺も昔、仲間と日本へ行ったことがある。綺麗な国だったよ」
ヴィンソンは確かに「日本」と「韓国」と口にした。
発音には少し癖があったが、聞き間違いではない。
ヨウタは剣を握る手に、わずかに力を込めた。
その反応を見たヴィンソンは、ますます笑みを深めた。
彼はそのまま、気楽な調子で話を続ける。
つい先ほどまで毒を塗った剣で何人もの兵士を貫き、素手で数人を殴り殺した残酷な男が、今はどこか懐かしむような口調で過去を語っていた。
「俺たちのことを聞いたことはないか? 新聞なら、たぶんこう書いただろうな。フランス・アルプスで起きた、大学生六人の失踪事件。六人全員が、理由もなくテントの中から消えた──ってな」
「何となく覚えている。映画の話か? 『魔山事件』と『血色の山』。友人に付き合って、何度も観た」
ヨウタの親友──野口ソラ。
ソラはホラー映画やスリラー映画が大好きだった。
ヨウタはよく一緒に映画館へ行き、上映中の作品でなければ、どちらかの家でパソコンを使って観ていた。
『魔山事件』は、ソラが特に気に入っていたホラー映画の一つだった。
アルプス山脈で起きた大学生六人の集団失踪事件を追う学生たちが、現地でドキュメンタリーを撮影し、やがて彼ら自身も山中で姿を消すという、モキュメンタリー形式の作品だ。
当時のヨウタは、ただ荒唐無稽な話だと思っていた。
だが今になって考えれば、自分たちの失踪も、元の世界では似たような映画にされているのかもしれない。
「映画になっていたのか。面白いな。俺たち六人が味わった苦しみは、そんな粗悪な映画とは比べものにならないが」
「君たちに、何があった?」
「俺たちか……一人だけ水魔法の才能を見出されて、聖女になった。王子と結婚して……今頃は王太后になっているんじゃないか」
「残りは、ジュリエットが皆を連れて逃げようとして、黒塔へ売られた。ほかの三人は一年も保たなかった。王族が『潜在能力を引き出す訓練』と呼んでいたものの最中に、魔物に食い殺されたよ」
「君は?」
自分の声がひどく掠れていることに、ヨウタは気づいた。
「俺は、生き残ることを選んだ」
ヴィンソンは身分を偽り、ディマン王家と敵対する勢力へ潜入し、内部から壊滅させたことがある。
異世界人であることを利用して、自分も召喚後に逃亡した者を装い、実際に王国から逃げ延びた異世界人たちを捕らえたこともあった。
そして現在まで長年続けてきた人身売買も、もともとはディマン王国と華唐国が共同で始めた事業だった。
両国の関係が変化しつつある今になって、国王はヴィンソンたちを始末しようとしているにすぎない。
「知らなかったのか?」
ヴィンソンは笑った。
「いや、お前も何かには気づいていたはずだ。ただ、考えたくなかっただけだろう。まともに考えていたら、これほど長いあいだ、従順な日輪の勇者でいられるはずがない」
「そんな話をしたところで、君の犯した罪が許されるわけではない」
「そうだな。だが、俺とお前に何の違いがある?」
ヴィンソンは笑いながら言った。
「お前は王国に命じられて殺す相手を悪人と呼び、俺は王国に命じられて売る相手を商品と呼ぶ。お前は正義を楽しみ、俺は金を楽しんだ──だが、命令を下した人間は同じだ」
ヴィンソンはヨウタを値踏みするように眺めた。
その瞳に浮かぶ悪意を、隠そうともしない。
「まあ、少なくとも俺は贅沢に暮らし、やりたいことを好きなだけやった」
「お前はどうだ? 今もたった一人だ。そのうえ最後には、俺と同じようにディマン王国から始末される」
甘ったるい血の臭いが鼻腔へ入り込んだとき、ヨウタは初めて、自分がすでに剣を振るっていたことに気づいた。
ヴィンソンは地面に倒れていた。
胸を剣で貫かれ、傷口から鮮血が絶え間なく噴き出している。
体が何度か痙攣したあと、完全に動かなくなった。
ヨウタは呆然と、その光景を見つめた。
人を殺したのは、これが初めてではない。
だが、異世界から来た者を殺したのは初めてだった。
同じ故郷を持ち、ディマン王国の真実について、さらに多くの情報を与えられたかもしれない人間を。
ヨウタには、後悔している時間などなかった。
いや、後悔することを自分に許してはならなかった。
名簿に記された十人は、全員殺さなければならないのだ。
その名簿の中で、ヨウタを最も驚喜させた名前の一つ。
──野口空。
初めてその名を見つけたとき、ヨウタは笑った。
そして、泣いた。
ソラを見つけなければならない。
見つけて、殺す。
そうすれば、すべてをやり直せる。
時間さえ巻き戻れば、二人は一緒に帰れるのだ。
自分たちの、あの世界へ。




