夢見る女
遠くから聞こえてくる歌声が次第に大きくなり、ジェイドの思考を遮った。
彼は苛立たしげに歌の聞こえる方角を睨む。
小指を切り落とすと?
なんとも白々しい歌だ。
人の遺体とは、本来あるべき姿のまま遺族のもとへ返され、一族の墓所へ手厚く葬られてこそ尊厳があるというものだ。
ジェイドはメアリーのほうへ向き直り、護衛を呼びに行かせようと口を開いた。
「おい、メアリー。」
返事はない。
メアリーは歌にじっと耳を傾けたまま、何かを考え込んでいるようだった。
ジェイドは鼻で笑う。
「どうした? そんな下賤な連中の歌が気に入ったのか?」
その声で、メアリーはゆっくりと彼のほうへ顔を向けた。
しかし、その瞳は虚ろで、何も映してはいなかった。
「……メアリー? 僕の愛しい人。」
ジェイドの声が、不意に甘く柔らかな響きを帯びる。
それは、かつて『ジェンナ姫』を何度も演じていた頃に骨の髄まで染みついた話し方だった。
その表情も、その声音も、もはや考えて作るものではない。彼にとって、それは呼吸と変わらぬ本能になっていた。
やがて、メアリーの瞳にゆっくりと焦点が戻る。
ジェイドは椅子から立ち上がると、彼女の前へ歩み寄り、その場に膝をついた。そして両手でメアリーの手を包み込み、まっすぐ彼女を見つめる。
「メアリー、大丈夫? 急に黙り込んだから、心配したよ。」
ようやく我に返ったメアリーは、自分の前に跪くジェイドを見るなり、頬から耳まで一気に真っ赤に染めた。
「ジェイド様!? どうしてそんな……! 早く立ってください! もし護衛たちに見られたら……!」
慌ててジェイドを立たせようとするメアリーだったが、彼は首を横に振った。
少し青白く、長年の労働で厚い胼胝に覆われた彼女の手を、両手で優しく包み込む。母から受け継いだ紫水晶のように美しい瞳が、深い愛情を湛えたように彼女を見つめていた。
「大丈夫だよ、メアリー。君は僕にとって一番大切な人なんだ。誰に見られても構わない。」
その言葉に、メアリーの瞳には涙が滲んだ。
「ご、ごめんなさい……。さっき……少し、ぼんやりしてしまって……。」
「また、あの不思議な夢でも見ていたのかい?」
ジェイドは大げさに目を輝かせ、心から感心したような表情を浮かべる。
「君は本当に僕の救世主だ、メアリー。最近は君を気遣う余裕もなくて、本当にすまない。でも分かっているだろう? 勇者ヨウタと軍の支持を得られるかどうかは、僕にとって何より重要なんだ。もし今回の魔物の王討伐で皆の注目を集められるような方法があれば……。」
「はい! 私、きっと考えます!」
「君は僕の夢の妖精だよ。もし今回うまくいったら、父上にも君の功績をきちんと伝える。その時は……僕たちはずっと一緒にいられる。」
「本当ですか!?」
メアリーの顔がぱっと明るくなる。
ジェイドが約束した未来を思い描くだけで、彼女の心は幸せで満たされていった。
ジェイドは静かに頷いた。
「ああ、本当だ。」
「でしたら……少しだけ時間をください。必ず、いい方法を考えてみせます。」
「もちろん。君は少し休んでいてくれ。僕は少し散歩してくるよ。」
ジェイドは天幕の入口を開いた。
家畜の匂いと汗の臭いが入り混じった空気が一気に流れ込み、彼は思わず眉をひそめる。
メアリーが考えを巡らせている間に、もう一度勇者ヨウタと話をしてみよう。
本人は気づいていないのだろうが、メアリーはよく独り言を口にする。
そして、その何気ない呟きの中には、いつも驚くような情報が紛れているのだ。
例えば、彼女がまるで別人になった、あの日。
あの日のメアリーは、いつものようにジェイドを大声で嘲笑い、部屋を掃除すると言ってはわざと汚れた水で床をこすり、その泥水を彼へ浴びせかけていた。
―だが、その途中で突然変わった。
今でも、あの時の言葉をジェイドは鮮明に覚えている。
「えっ……?」
「ここ……どこ?」
「私……死んだんじゃ……? ここは……ディマン王国?」
「これって……ジェイド王子? 私の仇じゃない! どうしてディマン王国に? しかも、そんな格好をしてるの!? まさかジェイソン国王がエリカ王妃に唆されて、自分の息子を人質として送り込んだとか?」
「もう一度やり直せるなんて……! 今度こそジェイド王子を利用して、幸せな人生を手に入れてみせる!」
あの日以来、どれほどメアリーが愛情深い眼差しを向けてきても、ジェイドは彼女を信じることができなかった。
こんな化け物を、一体誰が信じられるというのだ。
ジェイドは思い出す。
以前、メアリーがいつものように独り言を呟いていたとき、勇者ヨウタの名前が出てきたことがあった。
あのとき、彼女はこう言っていた。
「せっかく生まれ変わったんだから……勇者ヨウタを助けに行くべきかな? 前の人生では、魔物の王との戦いで行方不明になったはずだし……。もし私が助けられたら、きっと彼は私に力を貸してくれる……。」
だからこそ、ジェイドはここまでやって来たのだ。
メアリーの口から、彼女が言う「前の人生」における魔物の王討伐の記憶を少しでも聞き出すことができれば、重要な局面で先手を打ち、勇者ヨウタを救えるかもしれない。
そうなれば、その恩を受けたヨウタは、自分に力を貸さざるを得ない。
勇者ヨウタさえ味方につけば、弟たちなど恐れるに足りない。
父が即位した暁には、自分こそが皇太子の座を手にすることができる。
――いや。
祖父の玉座に、そのまま座ることさえ不可能ではない。
そんな野心を胸に、ジェイドはゆっくりと勇者ヨウタの天幕へ近づいていった。
まずは今、ヨウタが誰かと話している最中なのかを確かめる必要がある。
彼は人目につかない物陰を選び、気配を殺しながら静かに近づいていった。
別荘で暮らしていた頃、使用人たちは彼の存在などいないもののように扱っていた。
だからこそジェイドは、人に気づかれず身を潜める術を、幼い頃から自然と身につけていたのである。
どうやらヨウタは、リタール王国から来た冒険者たちと話をしているようだった。
あの親子の息子が何か面白いことでも言ったのか、その場からは大きな笑い声が上がる。
ジェイドは、あの親子が嫌いだった。
冒険者などという野蛮な生業を、親から子へ受け継ごうとするなど、いかにも平民らしい浅ましい発想だ。
しかも父親――ノーマンは、貴族の女との間にあの私生児をもうけたという噂まである。
なんと恥知らずな話だ。
貴族の女性にとって最も大切なのは貞節である。
それを、あのような下賤な男と共に夫を裏切るなど、到底許されるものではない。
もしその女がディマン王国の貴族であったなら、父上と祖父上に願い出て、最も苛烈な刑に処してもらうところだ。
そのとき、不意に一つの言葉がジェイドの耳に飛び込んできた。
「本当なんだって! 俺、ジャスミーヌが家族に送る手紙をこっそり見ちゃったんだけどさ、『エイデンはゴールデンレトリバーみたいで可愛い』って書いてあったんだよ!」
ジェイドの表情がぴくりと動いた。




