戦場に残るもの
「魔物の王がすでに封印されているなら、あの時点で勇者に炎の魔法で焼き尽くしてもらえば、それで終わりだったんじゃないですか?」
エイデンが不意に口を開いた。
部屋にいた三人は同時に顔を上げ、驚いたように彼を見つめる。
「おかしいですよね? もしエリカ王妃様や母さんだったら、あんな危険な生き物を何年もあの場所に放置したりなんて、絶対にしません。」
三人が黙って耳を傾けているのを見て、エイデンは背中を押されたような気持ちになり、そのまま言葉を続けた。
「もし、最初から全部罠だったとしたらどうでしょう? 本当の狙いは魔物の王じゃなくて、錆鉄の冒険者ギルドの強いやつらをまとめて始末することだった、とか。」
一度言葉を切ると、エイデンの表情は真剣なものへと変わる。
「向こうは、母さんと俺たちの関係なんて知らないのかもしれません。ただ、異国で死んで、壺に詰められても誰にも気にされないような冒険者だって思ってるだけなんですよ。」
ロイは驚いたようにエイデンを見つめた。
幼い頃から見守り続け、数え切れないほどの騒動に巻き込まれてきた少年だった。
「……最近、本当に頭を使うようになったじゃないか。」
照れくさそうにエイデンは俯き、思わずにやける。
「ジャスミーヌが言ってたんです。もっと周りをよく見ろって。」
そう言い終えると、また堪えきれずに「へへっ」と笑ってしまった。
恋人との思い出に浸っているエイデンを見て、ロイは呆れたように肩をすくめる。
「魔物の王が危険な存在であることに疑いはない。レインが食い止めるまで、国境守備隊は壊滅寸前まで追い込まれていた。」
ロイは静かに続けた。
「だが俺はずっと疑っている。ディマン王国は魔物の王を殺せなかったんじゃない。殺せなかったのか、それとも殺したくなかったのか、そのどちらかだ。今回ここへ来ると決めた理由の一つも、それをこの目で確かめるためなんだ。」
橘さんは優しくエイデンの頭をぽんと叩いた。
「安心して。契約のどこにも、私たちが真っ先に突っ込まなきゃいけないなんて書いてないわ。何があっても、一番大切なのは自分の命を守ることよ。」
三人の大人たちから「この子もようやく成長したんだね」とでも言いたげな温かな眼差しを向けられ、エイデンは居心地が悪そうに身をよじる。
適当な理由をつけて部屋を抜け出すと、年の近い兵士たちの輪へと戻っていった。
それから間もなくして、広場のほうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。
若い兵士たちが声を張り上げて笑い合い、やがて誰かが音頭を取り、一曲の歌を歌い始める。
「こうして見ると、エイデンには本当に人を惹きつける力があるわね。」
橘さんは感慨深そうにつぶやいた。
「その代わり、秘密を守るのはあまり得意じゃないけどな。」
エイデンが初等学校へ通っていた頃、錆鉄の冒険者ギルドの周辺では、こんな冗談がよく囁かれていた。
――朝、学校で誰かがバナナの皮を踏んで転べば、夕方には錆鉄の冒険者ギルド中の人間が、どっちの足で踏んだのかまで知っている。
どうやら歌う者がさらに増えたらしく、歌声はますます大きくなっていく。
「この小指を切り落とし 血に染まる戦衣へ包み
遠い故郷へ持ち帰り 愛する人へ届けておくれ――」
橘さんは数秒ほど耳を澄ませ、不思議そうに首をかしげた。
「……ずいぶん変わった歌詞ね。」
「歌詞だけ聞けば不気味ですが、れっきとした恋歌ですよ。ディマン王国の辺境では昔から親しまれていて、子どもでも口ずさめるくらい有名です。」
かつて何度も冒険者として勇者と共に戦場へ赴いたノーマンは、ディマン王国軍の風習にも精通していた。
「これは一介の兵士の視点で歌われています。もし自分が戦場で命を落としたなら、戦友に左手の小指を切り取ってもらい、それを故郷へ持ち帰り、愛する人へ渡してほしい――そういう意味の歌なんです。」
「どうして、そんなことをするの?」
橘さんは首を傾げる。
ノーマンは静かに頷きながら説明を続けた。
「理由は単純です。予算と身分の問題ですよ。」
「辺境の兵士には、遺体を丸ごと故郷へ送り返す余裕がありません。氷結魔法も魔導冷蔵車も高価で、使えるのは貴族や高級士官くらいです。」
「だから戦友の左手の小指だけを切り取り、本人の衣服の切れ端で包んで故郷へ持ち帰るんです。少なくとも家族は、それを埋葬できますから。」
ノーマンは遠くから聞こえてくる歌声へ目を向けた。
「歌の兵士は、自分の一部を永遠に恋人のそばへ残したいと願う一方で、その小指が恋人を過去へ縛りつけ、一生新しい恋をできなくしてしまうのではないかと恐れているんです。」
「そこまで深い関係でもない相手から、遺体から切り取った小指なんて突然渡されたら……普通は怖いだけよね。」
橘さんが率直な感想を漏らすと、ロイたちも静かに頷いた。
その瞬間、ロイの脳裏にレインの姿がよぎる。
彼の知る限り、レインの遺骸はすべてディマン王国によってあの大剣へと錬成され、家族のもとへ帰るべきものは何一つ残されなかった。
葬儀の日、棺に納められていたのは、血に染まった軍服が一着あるだけだった。
―だが、あの戦場にはレインの兄もいたはずだ。
ならば彼は、辺境の風習に従って、弟が変えられてしまう前に何かを残さなかったのだろうか。
ロイはその青年士官の面影を思い返そうとした。しかし脳裏に浮かんだのは、輪郭の曖昧な人影だけだった。
十六年という歳月は、あまりにも長い。長すぎて、彼はその男の名前さえ思い出せなくなっていた。
橘さんもまた、レインのことを思い出していた。
ロイと共に多くの時間と心血を注いで育て上げた、あの青年。
その命は雷光のように短く、それでいて誰よりも鮮烈に輝き、そして一瞬で消えていった。
「人の身体を巨大な剣へと変えてしまう秘術……。」
橘さんは静かに呟いた。
「どうしても『羊の花』を思い出してしまうの。」
その名が口にされた途端、部屋の空気が一瞬にして重く沈む。
ロイは眉をひそめ、ノーマンの表情もはっきりと険しくなった。
「確かに、『羊の花』の技術は華唐国で生まれたものだという噂は昔からあります。」
ノーマンは苦々しい表情のまま続ける。
「……あの技術は、最初から人間を人間として扱っていません。」
彼は鼻で笑った。
「世の中には、『奴隷は高価だから、主人は大切に扱うものだ』『家族同然に可愛がられることだってある』なんて言う人間がいます。」
その声音には露骨な軽蔑が滲んでいた。
「そんな話を聞くたびに思いますよ。そう言う連中を華唐国の奴隷市場へ放り込んで、本当に値札を付けられたあとでも同じことが言えるのか、試してみたくなるんです。」
同じ歌は、勇者一行の野営地にも流れてきていた。
「……この歌を聞くたびに、ぞっとする。」
ヨウタは眉を寄せ、小さく呟く。
誰も返事はしなかった。
この場にいる仲間のほとんどは、ヨウタと共に幾度も戦場へ赴き、血に染まる戦いの中で、一人、また一人と仲間を見送ってきた者たちだった。
ヨウタはこれまで何度も王家へ直訴している。
せめて戦死者だけでも、骨灰にして故郷へ帰してほしい――。
だが、その願いは一度として聞き入れられることはなかった。
長年ヨウタの傍らで戦ってきた彼らは、彼が抱える孤独も寂しさも知っている。
そして、この数年間、ヨウタへ近づこうとする者が絶えなかったことも。
ディマン王国の王女や王子。
真珠王国の王女や公爵。
そして今では、ジェイド王子まで。
誰もが口ではヨウタを慕っていると言い、力になりたいと言い、もっと近づきたいと言う。
しかし、その瞳の奥には決して隠しきれない欲望が宿っていた。
結局のところ、彼らはヨウタを利用したいだけなのか、それとも、自分だけの戦利品にしたいだけなのか。
そのどちらかでしかなかった。
「小指を切り落として贈る、か……。」
ヨウタは苦笑する。
「昔、そういう民間伝承めいた怪談が大好きな友達がいたんだ。」
その言葉とともに、元の世界で、その友人と肩を並べてホラー映画を観ていた頃の記憶が蘇る。
自然と、彼の表情は少しだけ柔らかくなった。
ソル大佐は、ヨウタが懐かしそうな顔を見せるほど大切に思う「その友人」が、どんな人物だったのか少し気になった。
だが、その疑問はすぐ胸の奥へ押し込まれる。
ヨウタのかつての仲間の多くは、すでにこの世にはいない。
たとえその友人が、遠い異世界で今も生きているだけなのだとしても。
ヨウタにとっては、それもまた永遠の別れと変わらないのだろう。
ソルは、ヨウタの瞳に一瞬だけ浮かんだ寂しさを見逃さなかった。
それでも最後まで、何も尋ねることはなかった。




