女神が選ぶ者(Side:ジェスミン)
「それは――豊穣の女神の聖女のことですか?」
ソラという存在の特殊さを考えると、その問いが指しているのは豊穣の女神に選ばれた聖女なのか、それともディマン王国が異世界から無理やり召喚された少女へ与えた『聖女』という称号なのか、ジェシミーヌには判断がつかなかった。
「そうだ。君は真珠王国の女王によって選ばれた三人の〈織りの魔女〉の一人だと聞いている。おそらく女王は、君の祖父がどれほどそれを忌み嫌っていようとも、豊穣の女神の聖女についての知識を君に伝えたはずだ。」
彼らが徹底的に調べ上げていることは予想していた。
それでも、ソラの口から祖父のことが出てきた瞬間、ジェシミーヌは少しだけ奇妙な感覚を覚えた。
「はい。関連する知識は学びました。」
「では、君が知っていることを聞かせてほしい。」
そう促され、ジェシミーヌは静かに語り始めた。
実際のところ、真珠王国における豊穣の女神への信仰は、すでに形骸化していた。
エドラー女王がその信仰を王国へもたらしたものの、後の王族たちは少しずつ教義を忘れ、象徴的な儀式だけを残した。
さらに長年にわたるディマン王国との婚姻によって、天空神の信仰と文化が徐々に流れ込んでくる。
書店にはディマン王国から伝わった恋愛小説が並ぶようになった。
そこでは、豊穣の女神を信じる母親は恋人たちを引き裂き、保守的な長老は子どもを虐げる存在として描かれていた。
いつしか人々は、こう信じるようになった。
―豊穣の女神を信じること自体が、悲劇の始まりなのだと。
語りながら、ジェシミーヌ自身もまた、真珠王国がなぜここまで追い詰められたのかを、改めて理解していった。
「涙の聖女様の事件以来、真珠王国の人々は皆、女神はもう私たちを見放したのだと思っています。」
「どうしてそう思う?」
「蘭花平原にはもう雨が降りません。それに、砕骨刑を受けた人々は死ぬことすらできない。女神は、まだ怒っているのだと思います。」
「本当に、それは女神の怒りなのかな?」
ソラは静かに問い返した。
「このところ君が学んできた神話では、豊穣の女神の人の身を殺した者たちや、女神が最も愛した紫晶花園を焼き払った者たちは、どうなった?」
ジェシミーヌは記憶を辿る。
血に染まった残酷な結末を思い出し、不思議と口元に穏やかな笑みが浮かんだ。
「では、真珠王国は本当に、そのような報いを受けたのかな?」
「……いいえ。災厄は蘭花平原と、あの事件に関わった人たちだけに限られていました。」
ジェシミーヌは自分でそう答え、頷いた。
ソラはさらに続ける。
「仮に、ある日――」
「第三王子と、血筋の穢れた公爵家の息子が過去を悔い、償おうとしたとしよう。」
「旅から戻った君とセリーナが、再び彼らとの婚約を受け入れ、ともに豊穣の女神への信仰を立て直す。」
ソラは純粋な興味を宿した眼差しでジェシミーヌを見つめた。
「もし君が婚儀を選ぶなら、その未来は失われる。」
「君は、それでも構わないのか?」
ジェシミーヌは、その道が存在することを知っていた。
「豊穣の女神の教義にはこうあります。」
『一度裏切った者には警戒せよ。他者を赦すことは容易い。しかし、自らを赦すことは何よりも難しい。ゆえに、人は再び裏切ることでしか、その痛みから逃れられない。』
「そういう未来があるのかもしれません。でも、私にはそこに価値があるとは思えません。」
ソラは思わず笑みを漏らした。
「いい答えだ。」
「つまり私は、あの人たち全員が苦しみながら罰を受けることを望んでいます。」
「ただ死ぬだけでは、到底許せません。」
自分の立場をはっきり示すように、ジェシミーヌは静かに付け加えた。
ソラはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「よし。それで安心した。」
その後、話題は再び聖女へと戻った。
「女王から授かった典籍には、豊穣の女神が選ぶ聖女は、それぞれ異なる力を授かり、その時代に真珠王国へ訪れる災厄に備えるために存在すると書かれていました。」
「私は女神の赦しを信じています。でも……もし国から聖女がいなくなってしまったら、どうすればいいのでしょうか。」
ソラは少し意外そうな表情を浮かべた。
「豊穣の女神は、一つの国だけに聖女を授けるわけではない。」
ジェシミーヌは目を見開く。
ソラはそのまま続けた。
「豊穣の女神を信仰する土地は、無尽部族だけではないだろう? そうした土地には、それぞれ聖女が現れてきた。」
「……私の視野が狭かったのですね。」
「いや、それでいい。」
「どの国も、自国を中心に物事を語るものだ。」
「もし、ある国が自国を捨て、他国の民だけのために尽くし始めたなら、その国は滅びに向かうだけだ。」
「……確かに、その通りですね。」
ジェシミーヌには、ずっと胸につかえている問いがあった。
「それなら……もし、エイデンがいなかったとしても……」
「エイデンがいなくても、私はこれほどまでに助けてもらえたのでしょうか?」
もっと大きな視点で見れば、エイデンがジェシミーヌと出会い、彼女を愛した瞬間から、巨大な歯車が回り始めたようにも思えた。
ソラはすぐには答えなかった。
数秒間、ジェシミーヌを静かに見つめてから、ようやく口を開く。
「助けていたよ。」
その答えには、一片の迷いもなかった。
ジェシミーヌは思わず息を呑む。
「エイデンの想いは、すべてを少し早めただけだ。」
「確かに、彼がいなければエリカが君に気づくまで、もう少し時間はかかっただろう。」
「だが、君は自分自身の力でここまで辿り着き、この席に座ることのできた数少ない人間なんだ。」
ジェシミーヌは、返す言葉を失った。
自分は、エイデンに愛されたからこそ見てもらえたのだと思っていた。
けれど今、ただ「ジェシミーヌ」という一人の人間を見てくれている者がいる。
そんな瞬間は、これまでほとんどなかった。
王子のもとへ戻れと毎日のように言い、アルジー家の栄光を取り戻せと責め立てる兄でもない。
過去の因縁ばかりほのめかしながら、真実を決して語ろうとしない祖父でもない。
そして、一度たりとも本当の意味で自分を見つめてはくれなかった元婚約者でもない。
もちろん、その言葉の一部は社交辞令なのかもしれない。
それでも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「女神がいつも好むのは、一歩を踏み出す勇気を持つ女性だ。」
ソラは穏やかに言った。
「婚儀は、誰にでもできるものではない。」
「君たちが現れるまで、この何十年もの間、それを成し遂げたのはケイトと橘さんだけだった。」
その言葉を聞き、ジェシミーヌは深く考え込む。
そんな彼女を見て、ソラは静かに続けた。
「もし君さえよければ、豊穣の女神について、もっと多くのことを教えよう。」
ジェシミーヌは静かに頷いた。
それから長い沈黙が流れる。
出会った瞬間から、ずっと心に引っかかっていた問いが一つだけ残っていた。
彼女はようやく顔を上げ、ソラを見つめる。
「最後に、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「もちろん。」
ジェシミーヌは一度息を整え、静かに尋ねた。
「どうして……使徒は、男性なのですか?」




