もう少しだけ、この宴を(Side:ジェスミン)
キャロラインは立ち上がり、杯を掲げた。
「本日の主役が揃いました。女神の御前にて、今日の二人の花嫁を歓迎いたしましょう!」
人々は拍手も歓声も上げず、ただ静かに立ち上がって杯を掲げた。
ジャスミーヌも席を離れ、セリーナの身体を支えて立たせると、皆と同じように杯を持ち上げる。
ただ一人、黒髪の男だけが席に座ったまま、わずかに杯を掲げていた。
人々はキャロラインに倣い、杯の酒を一息に飲み干した。淡く甘い味わいで、とても飲みやすい果実酒だった。
セリーナを含め、皆が再び腰を下ろしたあとも、ジャスミーヌだけは立ったままだった。
彼女は黒髪の男へ向かって、丁寧に一礼する。
「使徒様。私は真珠王国より参りました、ジャスミーヌ・アルジーと申します。こちらはセリーナ・アルジーです。このたびは私たちにお力添えくださり、心より感謝申し上げます」
ジャスミーヌの言葉を聞いたセリーナは、驚いて大きく目を見開いた。
《果てなき部族》で暮らすようになってから、何度も耳にしてきた「使徒」という存在。
まさか、それが目の前の黒髪の男だったとは思いもしなかったのだ。
どうしてジャスミーヌには分かったのだろう。
慌てたセリーナも立ち上がろうとしたが、花園からここまで歩いてきただけで、すでにひどく疲れていた。
椅子の肘掛けを掴んで身体を起こそうとする。
けれど、その両脚にはもう力が入らなかった。
「二人とも、座ったままでいてください。使徒といっても、聖女に代わって一時的に務めを果たしているだけですから」
二人が腰を下ろすと、ジャスミーヌはあらためて黒髪の男を観察した。
やや平坦な顔立ちと、淡い黄色みを帯びた肌。
その容貌は穏やかで、誰かが疲れている時や過ちを犯した時にも、優しく寄り添い、助けてくれそうな印象を与える。
だがジャスミーヌは知っていた。
本当に畏れるべき人間は、時としてこういう顔をしている。
彼を見ていると、別の人物が脳裏に浮かんだ。
顔が似ているわけではない。
纏ってる雰囲気や、ごく些細な仕草が似ているのだ。
けれど -あの二人に、似ているはずなどあるのだろうか。
黒髪の男がジャスミーヌと視線を合わせた。
彼はもう、彼女が何を考えているのか理解しているようだった。
そしてジャスミーヌもまた、彼が理解していることを悟った。
「あなたは、とても聡明な方ですね」
黒髪の男は微笑んだ。
「エイデンという子は……あなたには、少しばかり愚かすぎるのではありませんか?」
ジャスミーヌは表情だけは平静に保っていた。
けれど、心臓が一拍遅れたような感覚に襲われる。
隣ではキャロラインが二人のやり取りを見守り、満足そうな笑みを浮かべていた。
「私は野口空。リタール王国から参りました。お二人にお会いできて光栄です。あとで時間がありましたら、少しお話しできればと思っています」
野口空。
その名を聞き、ジャスミーヌはようやく、彼の容貌が持つ特徴の理由を理解した。
ディマン王国の勇者は、木下陽太。
同国の王妃は、椎名美波。
そうした姓名は、異世界にある国――日本に由来するものだ。
そして野口空は、自らをリタール王国から来た者だと名乗った。
それは、ジャスミーヌの推測をさらに確かなものにした。
セリーナはジャスミーヌの背後から、心配そうに親友を見つめていた。
平静な表情の下で、彼女の心に凄まじい嵐が吹き荒れていることが、セリーナには分かった。
短い出来事が過ぎると、《果てなき部族》の昼餐会は何事もなかったかのように続けられた。
人々の振る舞いは、まるで本物の婚礼を控えているかのようだった。
全員が食事を終えると、大きな円卓は片づけられた。
人々はジャスミーヌとセリーナを取り囲み、杯へ冷たい茶や酒を注ぎながら祝いの言葉を贈り、二人の花嫁の美しさを口々に褒めた。
セリーナだけが仲間外れにならないように、ジュリアは水を満たしたガラスのティーポットを用意した。
中には鮮やかな緑色のミントと、薄切りにしたレモンが浮かび、見ているだけでも涼しげだった。
部族の人々は、次々と花を運び込んだ。
アンナは紫晶花でいっぱいになった籠を持ってくると、二人の頭上へ惜しげもなく花を撒いた。
輝く紫色の花びらが宙を舞い、まるで蝶の群れのように二人の髪や肩へ降り積もっていく。
花々で飾られた食堂は、やがて華やかな舞踏の場へと変わった。
ジャスミーヌとセリーナを中心に、人々が輪を作って踊り始める。
ジャスミーヌもアンナに手を引かれ、踊りの輪へ加わった。
皆と一緒に足を踏み鳴らし、くるくると回る。
セリーナは毛布に包まれたまま椅子に座り、楽しそうに手を叩いていた。
ジャスミーヌはふと、この宴がもう少しだけ長く続いてくれればいいのにと思った。
「そういえば、この儀式は正式な結婚式ではないけれど、かなり近いものではあるでしょう? あなたたちの国では、同性同士の結婚は認められているの?」
アンナが興味深そうに尋ねた。
「真珠王国では認められていません。ただ、母方の一族では、かつて二人の女性が婚礼を挙げた記録があります」
「ずいぶん厳しい国なのね。私たちの部族なら、そんな制限はほとんどないのに」
昼の宴が終わる頃には、セリーナは疲れ果てて眠ってしまっていた。
ジャスミーヌは彼女を抱き上げ、アンナに案内されながら、二人に用意された部屋へ戻った。
セリーナの部屋は薄暗かった。
すべての窓が厚いカーテンで固く閉ざされ、わずかな光さえほとんど差し込まない。
四方の壁には、先ほどの礼拝堂と同じ四枚の神話画が描かれていた。
二柱の神々が、まるで特別で神秘的な方法によって、部屋の中央で深い眠りに落ちた少女を見守っているようだった。
部屋には木製の机があり、その上には数多くの編み物が並んでいた。
色鮮やかな花が刺繍された純白のヴェールと婚礼衣装。
色の異なる幾つものドリームキャッチャー。
そして、まだ完成していない編み物もいくつか残されていた。
机と椅子のそばには大きな水盆が置かれ、中には澄んだ水が満たされている。
ジャスミーヌの荷物も、すでに誰かによって部屋へ運び込まれていた。
彼女は荷物を開き、中から編み上げたショールを取り出すと、眠るセリーナの身体へそっと掛けた。
すると、眠りの中でも苦しそうに寄せられていたセリーナの眉間の皺が、少しずつほどけていった。
まるで、そのショールが彼女を守っているかのように。
ジャスミーヌは寝台の端に腰掛け、長い間、親友の寝顔を見つめていた。
アンナは扉のそばに立ち、悲しげな眼差しで二人を見守っている。
やがて、ジュリアが部屋へ入ってきた。
彼女は急かすことなく、ただ静かにジャスミーヌを見つめた。
「使徒様が、あなたにお会いになりたいそうです」




