蝶の舞う庭(Side:ジェスミン)
しばらく泣いたあと、セリーナはようやく落ち着きを取り戻した。
目元をこすり、照れ隠しのように顔を手で覆う。
「せっかく一番いい姿でジャスミンを迎えようと思っていたのに、こんなに泣いちゃうなんて……恥ずかしいわ。」
「大丈夫。私たち、もう何年もの付き合いでしょう? あなたのいろんな姿を見てきたもの。」
「……本当にいいの?」
セリーナがふいに尋ねた。
「何が?」
「本当に……私のために、あの儀式をしてくれるの?」
「もちろん。」
ジャスミンは、ほんの少しの迷いもなく言い切った。
その答えを聞いた瞬間、セリーナの表情はふっと和らいだ。
まるで長い間胸の奥に抱え続けていた重荷を、少しだけ下ろせたかのように。
セリーナ自身は気づいていないかもしれない。
けれどジャスミンは、出会ってから今日まで、セリーナにどれほど助けられてきたかを、一つ残らず覚えていた。
エルンストがジャスミンに敵意を向けるたび、セリーナは一度たりとも迷わずジャスミンの味方をした。
エルンストが漏洩した試験問題の責任をジャスミンになすりつけようとした時も、真実を証言したのはセリーナだった。
第三王子が国王から与えられた仕事を忘れ、ジャスミンに徹夜で手伝わせた夜も、セリーナは夜明けまでずっと彼女の隣にいた。
ある舞踏会では、王族の一人がジャスミンの酒に毒を盛ろうとしたことがあった。セリーナはそれに気づくと、ためらいなくその杯を自ら受け取った。
巡礼の旅では、一行が猛吹雪に閉じ込められたこともあった。
その頃にはすでに、セリーナの体調は悪化し始めていた。
それでも彼女は三日もの間、そのことを誰にも告げなかった。
ジャスミンが自分を心配して、その後の旅に支障をきたしてしまうことだけは避けたかったからだ。
セリーナは一度だって、何かを返してほしいと言ったことはない。
ただ何度も何度も、自分より先にジャスミンのことを優先してきた。
真珠王国の政情は、決して安定しているとは言えなかった。
第三王子は平凡な伯爵家にすぎないアルキ家の出身であるジャスミンを見下し、自分こそ公爵家か侯爵家の婿になるべきだと信じていた。
しかし女王がジャスミンを婚約者に選んだ理由は、彼女の母方の一族との和解を図るためだった。
二代前から続く確執を終わらせる――その政治的な意味を、第三王子は十代になっても理解していなかった。
そして王立学院へ入学すると、王家とジャスミンの母方の一族との不和を生んだもう一つの公爵家、その嫡男エルンストと親友になってしまう。
そんな環境の中、ジャスミンは宮廷でも学院でも、一瞬たりとも気を抜くことができなかった。
いつも周囲を警戒しなければならなかった。
もしセリーナが隣にいてくれなければ、ジャスミンはとっくの昔にエルンストと第三王子を毒殺していたかもしれない。
誰もが信じていた。
二人の友情と、エルンストとセリーナの愛情が、対立する派閥同士を結ぶ架け橋になるのだと。
――「ジェナ」が現れる、その日までは。
ジャスミンに救い出されたあとも、セリーナは心身ともに深い傷を負っていた。
それでも彼女は、監禁していた者たちが一夜にして姿を消した理由を説明できる、誰も疑わないほど自然な話を考え出した。
そのおかげで、ジャスミンはすべての疑いから逃れることができた。
だからこそ、ジャスミンはセリーナのためなら、どんな代償でも払うつもりだった。
「そうだ、お父様とお母様から手紙を預かってきたの。」
ジャスミンは封書を取り出し、セリーナへ差し出した。
少しでも話題を変えられれば――そんな願いを込めながら。
セリーナは手紙を受け取り、封を切ろうとしたところで、ふと手を止めた。
「どうしたの?」
ジャスミンが心配そうに尋ねる。
セリーナは小さくため息をついた。
「今この手紙を開いて、また『エルンストとやり直しなさい』って書かれていたら嫌なの。私を愛してくれているのは分かっている。でも……ああいうことを言われるのは、本当に嫌。」
「そんなこと、書いてないわ。あなたを愛しているからこそ、エルンストに付きまとわれないよう、あなたの後見を私に託したんでしょう?」
ジャスミンはそう言って励ました。
けれど心のどこかでは、その手紙に本当にそう書かれている可能性も否定できなかった。
セリーナの両親は、娘がエルンストのもとへ戻って結婚さえすれば、すべて丸く収まると、今でも信じているのかもしれない。
セリーナは封を切り、一行目を読んだだけで手紙を脇の机へ放り投げた。
数秒後、再び拾い上げると、今度は膝の上に置き、一文一文をゆっくり読み進めていく。
その瞳には苦しみをこらえた涙が浮かんでいた。
それでも最後まで、一粒も零れることはなかった。
ジャスミンはただ隣に座り、静かに寄り添っていた。
陽光を受け、水面は黄金色に輝いている。咲き誇る花々に囲まれ、蝶が舞う中に座るセリーナの姿は、一枚の名画のようだった。
少しでも触れてしまえば、その美しさごと壊れてしまいそうなほどに。
やがてアンナはジャスミンとセリーナを昼食会場へ案内した。
そこには白い外壁を持つ、美しい二階建ての建物が建っていた。
周囲には紫晶花が咲き誇り、近づいてよく見ると、外壁一面に物語を描いた壁画が広がっている。
「あれは、お二人の神様が出会った物語なの?」
ジャスミンが小声で尋ねる。
「ええ、恋物語よ。」
アンナは微笑みながら答えた。
壁画は四つの場面に分かれていた。
最初の場面では、人々が舞台のような建物を取り囲み、布幕に囲まれたその場所へ向かって祈りを捧げている。
最前列には王冠を戴く一家――支配者と思しき人々が立ち、その傍らでは黒髪の少女だけが顔を上げ、好奇心に満ちた眼差しで舞台を見つめていた。
次の場面では、桃色の長髪を持つ人物が幕を押し開け、舞台から姿を現す。
祈っていた人々は皆、白目をむいて倒れ、口元から涎を垂らしていた。
ただ一人、黒髪の少女だけが正気を保ち、二人は互いを見つめて微笑み合っている。
三枚目では、桃色の長髪の人物と黒髪の少女が紫晶花の花冠を戴き、海辺で遠くを見つめていた。
波は二人の脛まで寄せ、その沖合には巨大な黒い影が幾つも渦巻いている。
最後の場面では、黒髪の少女が地面に倒れ、その傍らに跪いた桃色の長髪の人物が、自らの腹を裂き、中から何かを取り出して彼女へ食べさせていた。
二人の背後では大地が裂け、人々は小さな虫のように裂け目へ落ちていく。
そのさらに遠い海では、大勢の人を乗せた一隻の船が、新たな大地を目指して進んでいた。
「あれが、私たちの祖先なの。」
アンナは誇らしげに、壁画の隅に描かれた船を指差した。
ジャスミンが気になったのは、四枚目の絵だった。
黒暗神はいったい、豊穣の女神に何を食べさせているのだろう。
自分の腹から、何を取り出したというのだろう。
たとえ神であっても、死にかけた恋人を救うために、自らの腹を裂いて何かを食べさせるというのは、どう考えても普通ではない。
そんな疑問で頭をいっぱいにしたまま、ジャスミンとセリーナは建物の中へ案内された。
扉の向こうには、豪華な装飾が施された大広間が広がっていた。
白い壁に囲まれ、四方には床から天井まで届く大きな窓が設けられ、外の景色をそのまま眺められるようになっている。
部屋の中央には巨大な円卓が置かれ、部族の人々が笑顔で二人を迎えた。
中央にはキャロラインが座り、穏やかな微笑みを浮かべている。
右にはジュリア、左には黒髪の男が座っていた。
その男の肌の色はどこか見覚えがある気がして、ジャスミンは思わず目を留める。
「さあ、座って。」
キャロラインは微笑みながら、黒髪の男の隣の席を指した。
ジャスミンが腰を下ろすと、アンナは若者二人に合図を送り、小さな卓の付いた椅子を運ばせてジャスミンの後ろへ置かせた。
三人の少女は立ち上がり、蒸したばかりの魚、チーズを和えたサラダ、根菜と肉の入った香り豊かなスープを順に配っていく。
料理を配り終えると、一人ひとりの杯へ淡い桃色の酒が注がれた。
甘く芳しい香りが辺りへ広がる。
そして最後に。
セリーナの小さな卓にだけ、一杯の澄んだ水が静かに置かれた。




