夜に響いた誤報
魔物の王が来た――!
その叫び声は、ディマン王国軍の野営地の中央から響き渡った。
そこはジェド王子と侍女メアリーが滞在している豪奢な天幕だった。
最も近くにいた指揮官――ソル大佐は、即座に武器を手に取り、自らの部隊を率いて駆け出した。
同時に、最も信頼する副官へ命じる。
「勇者様と冒険者ギルドの者たちに伝えろ。すぐにこちらへ!」
野営地の奥にいるヨウタたちへ、一刻も早く知らせるためだった。
天幕の前まで辿り着いたソルは、一瞬だけ足を止める。
まず、静かすぎた。
周囲には血痕もなければ、魔獣が暴れ回ったような痕跡もない。
その異様な静けさに、彼は違和感を覚えた。
そしてもう一つ。
―未婚の男女が二人きりで同じ天幕にいる。
もし
もっとも、ジェド王子の母方の一族はすでに失脚しており、王太子からも特別に重んじられてはいない。
数秒のうちに判断を下したソルは、天幕の外から大声で告げた。
「ジェド王子殿下! 失礼いたします!」
中にいる者へ聞こえるよう十分に声を張り上げると、彼は部下たちを率いて天幕へ踏み込んだ。
彼は素早く天幕の中を見回した。
中央では暖を取るための魔法の炎が、今も静かに燃え続けている。
床には脱ぎ散らかされた衣服が数着。
だが、血は付いていない。
――カサリ。
どこかで、四足歩行の獣が歩くような小さな物音がした。
兵士たちは互いの背を預け合い、武器を構えながら周囲を警戒する。
緊張が天幕を満たす。
「カリッ。」
乾いた音が響いた。
全員が一斉に音のした方向へ振り向く。
そこには、一頭の小さな茶色い子鹿がいた。
果物籠の前に立ち、真っ赤なリンゴを夢中でかじっている。
……
鹿、だったのか。
ソルは安堵の息をつき、王子の様子を確かめようと視線を向けた。
ジェド王子は豪華な寝間着姿のまま、毛布に身を包み、寝台の一番奥へ縮こまっていた。
見えているのは、怯えきった紫色の瞳だけ。
一方のメアリーも侍女服を脱ぎ、貴族令嬢が夜着として身に着ける薄手のネグリジェ姿になっていた。
彼女は毛布ごとジェドを強く抱き締め、自らの身体で庇うように寄り添っている。
二人とも衣服は乱れてはいるものの、大きく着崩れてはいない。
それを確認した兵士たちは、人知れず胸を撫で下ろした。
ジェド王子もようやく落ち着きを取り戻したらしく、信じられないものを見るような目で子鹿を見つめている。
対照的に、メアリーは冷静だった。
彼女は傍らに置かれていたショールを手に取り、薄い寝間着を隠すよう肩へ掛ける。
そして王子を抱いていた腕を静かに離し、優雅に立ち上がると、兵士たちへ深く一礼した。
「……申し訳ございません。どうやら、私どもの勘違いだったようです。」
穏やかな声音でそう告げる。
「ジェド王子殿下は幼い頃より第二側妃様と第三側妃様から虐待と冷遇を受けてこられました。そのため、今でも安らかに眠ることができず……この子鹿を魔物と見間違えてしまわれたのです。」
「……もういい。」
ジェドは片手で目を覆い、小さく呟く。
しかし、メアリーは焦るように言葉を続けた。
「このたびは皆様にご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございません。後ほど必ずお詫びを――今回は私が持参しております――」
「もういいと言っている!」
怒声が天幕の中へ響き渡った。
ジェドは勢いよく立ち上がると、身体を包んでいた毛布を乱暴に払い落とす。
その声に、メアリーの肩がびくりと震えた。
彼女は驚いたようにジェドを見つめる。
だが次の瞬間には俯き、その表情を誰にも見せない。
再び顔を上げた時には、そこにあったのは先ほどまでと変わらぬ、淑女らしい穏やかな微笑みだけだった。
ジェドは無言で手を振り、自らに付き従う護衛たちを呼び寄せる。
礼装用の上着を羽織ると、そのまま天幕を出て行った。
向かう先は勇者ヨウタと、この野営地で最高位の指揮官――中将のもとである。
その後ろ姿を見送りながら、救援のため駆けつけた兵士たちは何とも言えない空気に包まれていた。
「……ソル大佐。」
部下たちは困ったような顔で、自分たちを率いて突入した指揮官を見る。
ソルは頭をかきながら、苦笑した。
「まったく……俺だって一応、大佐なんだがな。」
「大叔父ほどでも、弟ほどでもないのは認めるさ。だからって、ここまで存在を無視されるとはな……。」




