後退命令
第一陣が陥落した時点で、連邦軍歩兵連隊本部はかなり沈んだ空気になっていた。
それは実際の所、第一陣の陥落そのものに対する絶望というよりも、"予想より持ちこたえてくれなかった事実"への落胆だった。
元より、この突出連隊には噂が流れていた。
曰く、"自分たちの後方で頑張ってくれている味方歩兵連隊はともかく、この突出連隊は後退許可が出そうだ"というものだ。
はっきり言って、そこにはなんの根拠も無かった。
あの手この手で送りまくった後退許可或いは開き直っての援軍要請には、只々"死守せよ"とばかり書かれているばかり。
上層部はまともに頭を働かせられる奴はいないのかと師団及び連隊の幕僚たちが、こぞって頭を抱えていた程である。
誰が言い出したかも分からないような、希望的観測に基づく、無責任な戯言でしかない。
しかし、追い詰められた人間の精神は脆いものだ。
まして、それが命に関わるものであり、しかも現状維持では全く希望が見えないともなれば。
しかも、現在の死守命令が明らかに無意味なものであり、責任を取りたくない上層部の自己満足と保身による無茶苦茶な内容であるのは誰の目にも明らかなのだ。
だから尚の事、命をかけて戦う側の精神は歪んでいき、そしてそれは伝播する。
「一刻も早くの後退だ。最早それ以外に取るべき手段はない」
時刻は午前の2時。
すでに暗闇に包まれ、両軍の睨み合いが継続される中、歩兵連隊長は幕僚たちの前でそう告げた。
「よろしいですな? 同志」
「うむ。我々としても、最早ここに留まる理由はない」
連隊長に問われたウリヤノフ少佐は、これは苦渋の決断だとばかりに重々しく頷きながらも、内心では自分が助かる光明を見出して小躍りしていた。
1時40分頃、師団司令部から暗号電文が届いた。
噂だとされていた後退命令が、師団長命令として本当に実現したのである。
それも、この連隊の守備陣地のみならず、後方陣地も含めてだ。
上層部が唐突に人道主義に目覚めたのか、何か大局的な、或いは政治的な何か―――例えば、誰かしら偉い人の身内が孤立部隊に含まれているとか―――があったのかはよく分からないが、ウリヤノフ少佐の信念は一貫している。
幾らでも替えの効く下等な連中が何人死のうが知ったことか。
自分のような崇高な使命を果たす立場である政治将校―――すなわち選ばれし者は、こんな所で無意味に死ぬわけにはいかないのだ。
「しかし、同志連隊長殿。後退するにしても、その為の準備を今からするとなれば、それ相応に時間が必要です。再編成もまだ済んでいませんが……」
幕僚の一人が口を開き、連隊長は目線で先を促す。
「まず、退路の確保。後方連隊の守備地域までの縦深約7kmには、経路が2本存在します。その途上にある橋や村落など、通行するための要所となるいくつかの地点があります。まずは、これらを確保しておかねば」
通常、陣地と陣地の間はお互いの直射火器が十字砲火できるくらいの隙間しか設けないものだ。
そうでなくては、陣地同士の相互支援が成り立たない。
所謂、"間をすり抜ける"が成立してしまい、戦車戦力を緊急出動させる機動防御で穴を塞ぐにしても、かなり地形的な有利性や相応の機甲戦力を必要とする。
ましてや、師団内レベルで陣地の間が7kmなんてのは、本来なら許容範囲も糞もない。
なんだってそんな訳の分からない陣形をしているのかと言うレベルだ。
しかし、今回の場合は事の発端が発端だけに、2つの連隊陣地は事実上の縦長かつあまりに離れすぎていた。
「待て。我が2つの連隊陣地に挟まれた一帯は、川と森林で帝国軍は侵入できないはずだろう?」
それでも陣地防御が成り立っていたのは、地形の制約によるものだった。
後方連隊陣地の南側の麓を、東から西へと流れるような川は、そのまま大きく屈曲して前方連隊陣地の西側へと南下するように水系を為す。
つまり、帝国軍が西側から2つの連隊陣地の間の一帯に進出し、2つの連隊を分断したければ、何らかの手段で川を越えねばならない。
それを成し遂げられる3つあった橋は、そのうち1つが過去の戦闘で爆破済み。
2つ目の橋は、今回の戦闘が始まる時点で、この連隊から派遣された爆破チームが破壊。
最も北寄り、つまり後方連隊陣地側にある残る一つは、いつぞやの嵐により、元から崩落している。
そして川の反対側、つまり東側は植生が濃すぎる森林地帯で、歩兵はともかく戦車は通れない。
歩兵だけがのこのこ進出した所で、こういうのはほぼ意味がない。
移動速度が遅すぎて、平原に出た瞬間から陣地を構えられる地形に辿り着く前に―――よしんば辿りついても準備が整う前に、駆けつけた戦車部隊と砲兵隊火力にタコ殴りにされるだけだ。
無論、それだけでは不安なので、橋があった場所には斥候班を派遣して見張らせ、林縁沿いは定期的に車両が巡察し、不穏な動きがないかを確認している。
すなわち、2つの連隊陣地の継ぎ目にあたる縦深7km、川の大きな屈曲故に正面幅が最大5km程度に及ぶ一帯は、ある種の陸の孤島である。
だからこそ帝国軍は2つの陣地の間に割って入るような完全分断に打って出ることができず、尚且つ連邦側はその一帯を砲兵隊陣地や後方支援部隊の活動拠点として活用できたのだ。
そして、斥候たちからは特に帝国軍の動きを知らされていないはずだった。
一同の視線が、一斉に一人の幕僚―――巡察や斥候班を統括していた中尉に向けられる。
冷や汗をかき、明らかに動揺した様子のその男は、若干震える声で告げる。
「……それは……状況が変わりました」
彼は地図上の一点―――敵の行く手を阻んでいた川のうち、南西のあたりにある村落地帯を震える手で指さす。
丁度、戦いが始まる前に爆破した橋がある箇所だ。
「橋の爆破が……完了していないと思われます」
「馬鹿な!? 派遣した連中は何をしていた!? なんで今まで誰も気づけなかった!?」
「爆破チームは橋の破壊後に見張りについていたはずだろ!? そいつらの定時連絡は!?」
同僚たちが次々に質問する中、、幕僚は首を横に振る。
「その爆破チームですが……恐らく全滅しています」
「なんだと!?」
一同が顔を見合わせてどよめく中、観念したようにその中尉は言った。
「通信隊からの報告によれば、定時連絡そのものは、問題なく続けられていました。恐らく、語学に堪能な者にすり替わったか……捕らえた者に予定通りの報告を実施させる等で、偽装されたものかと。食料の補給に向かった糧食班が襲撃され、生き延びた一人がつい20分前に戻り、報告で気付きました」
「敵の防備はどうなっている!? 今からでも攻撃して、橋を破壊できないか!?」
「23時時点で、少なくとも歩兵は渡れます。生き残りからの情報によれば、既に橋に隣接する村で規模不明の敵が防備を固めており……敵は恐らく、戦車が渡れるように橋を補強しているものかと」
「このッ、大馬鹿者が!!」
歩兵連隊長が声を荒げ、机上の地図に拳を叩きつけた。
「お前は言ったな!? 定時報告で状況は問題なく確認していると!! 川沿いの車両巡察は必要ない、何かあればすぐに気づくと!! その結果がこれか!?」
怒鳴られた中尉が息を呑んで固まる中、歩兵連隊長はこれ以上は時間の無駄だと判断したらしく、深い溜息をついた。
「……後方連隊陣地の戦況は?」
連隊長が問うと、つい少し前に後方連隊の指揮所から戻ってきた別の幕僚が答えた。
「特務戦車大隊を相手取っているので、かなり厳しい戦況ですが、地形が味方しているため、粘り強く維持してくれています。彼らの為にも尚の事、早期にここから下がらないとチャンスを喪いかねません」
すると別の幕僚が険しい顔で言った。
「問題は殿です。本来ならそちらも戦車部隊であるべきですが、T-34は今や5両しかいません。生き残りのズヴェロボーイ5両とKV2を1両加えても、規模は1個中隊。しかし、車両特性が違いすぎて連携も取りづらい。我々の後退経路は大きく分けて2つありますが、両方を抑えながら逃げるには尚の事戦力が不安です」
彼とはまた別の、戦車部隊出身の幕僚が頷いた。
「敵の中でも、最も厄介なのはパンターです。奴は正面装甲と火力のみならず、機動性にも優れている。待ち伏せしようにも開豁地が多いので、遠距離戦ではT-34に勝ち目がない。ズヴェロボーイならば正面装甲を叩き割れますが、離脱が困難です」
「殿については問題なかろう」
不意に割り込んできたウリヤノフ少佐に視線が集まる。
只、それは同じ政治将校の部下達からは"何か妙案があるのか"と言う期待の視線であったが、連隊本部幕僚らからは"嫌な予感がする"と言う苦々しいものだった。
「ズヴェロボーイ連中は、今回の戦いにおいて全くと言っていい程に役割を果たしていない。1両もチーグルを仕留められなかった彼奴等には、"責任"を取らせる必要がある」
"ほらこれだ"と言わんばかりの連隊本部幕僚たちの空気の中、歩兵連隊長が冷ややかに問うた。
「ズヴェロボーイは先行させて待ち伏せるとして、敵の圧迫を受けながら後退する部隊は?」
「そんなものは必要ない」
ウリヤノフ少佐は平然と言い放った。
「劣等民族の連中が居るではないか」
「どうやって踏みとどまらせる気だ? 奴らには我々を守る為に死ぬまで戦う理由がない」
歩兵連隊長が再び問うと、ウリヤノフ少佐はそれを待っていたかのように胸を張る
「簡単なことだ。理由を作ればいい。奴等の家族を適当に抽出して、我々共々後退させる」
一同は理解した。
一見すれば、それは文民の保護という善行だ。
だが、その実態は体の良い人質でしかない。
なんとなく、後の筋書きまで読めてしまう。
数週間もすれば、"故郷と家族、そして連邦軍を守る為に勇敢に戦った民兵たち"的な新聞が、大量に発刊されることだろう。
「しかし同志。"保護"するのは女子供、或いは老人ですよね? 十分な車両があるわけでもない。戦えない連中が主となれば、先鋒として弾除けにもならない。我々の機動速度が落ちますよ?」
まだ経験の浅い若手の幕僚が聞くが、ベテランたちはもう察しが付いている。
「それも別に問題にはならん」
案の定と言うべきか。
ウリヤノフ少佐はさも当然のように―――なんなら、相手が何を心配しているのか分からないとばかりに告げた。
「足手まとい共は適当なタイミングで、まとめて処分すれば良いではないか」
●
それから1時間後。
クラーラ・レフチェンコ率いるT-34が3両、タンクデサント兵を乗せた状態で夜陰に紛れて街道上を走る。
幸い、満月の月明かりが雪で反射され、周囲は驚くほどに明るいので、道に迷うことはない。
その後方を3両のSU−152と1両のKV‐2が付いてきている。
クラーラはそれを振り返り、深々とため息をつきながら停車を命じた。
「操縦手、停止用意……止まれ」
隊列が止まる。
今、彼女のT-34にはウリヤノフ少佐が同乗していた。
SU−152やKV‐2が経路上に待ち伏せさせる上で、どこに陣取るかを命じる為だ。
「同志少尉!!」
「はっ、同志少佐殿」
戦車の上から周囲を見回したウリヤノフ少佐が、左前方にある小さな木立を指差した。
暗闇のせいで間違いなくとは言えないが……距離は800m……いや、700mくらいか?
「あそこに待ち伏せすれば、この交差点を狙える。そうだろう?」
「……そうですね。ただ、周囲の地形は……恐らく路外機動が可能です。砲塔旋回はできる方が良いでしょう」
自分で口にしていて嫌になる。
この一言が意味するのは、ここで死ぬべき人間を選別する死刑宣告も同然だからだ。
そんなクラーラの内心を他所に、ウリヤノフ少佐は満足気に頷いた。
「よし、KV‐2の乗員を集めろ」




