王妃たちの秘めやかな娯楽・後編
次の夜、セファイドとサリエルは揃って読書に耽っていた。
セファイドの自室である。彼は小さな机の上に両足を投げ出した少々行儀の悪い格好で、サリエルは長椅子に腰掛けて、同じ赤い表紙の薄っぺらい本を開いていた。
「確かに凄い内容ですね、これは……」
サリエルは瞼の上を軽く揉み解して呟いた。燈台が明るいとはいえ、夜の読書は目が疲れる。
セファイドもまたしかめっ面を上げて、
「な? 驚くだろう?」
「どうしてこのような本が女性の間で流行るのでしょう」
「知らん」
彼は机に本を放り投げた。全三巻、すべて読み終えたところだった。
後宮の妾妃ばかりか正妃までもが所持していた本は、匿名作家の書いた官能小説だった。いわゆる艶本ならば特段珍しいものではない。ただ、セファイドを唖然とさせたのはその内容であった。
『背徳の熱砂』と題されたその作品は、架空の国を舞台にした恋愛小説だった。
主人公は国王と彼に仕える異邦の楽師――どちらも男である。
彼ら二人の退廃的にして官能的な関係を、流麗な筆致で赤裸々に綴った作品なのであった。
「登場人物の名前こそ違いますが、これはやはり……」
「俺とおまえに決まってる。例の噂に便乗して、こんな不届きなものを書いている奴がいるんだぞ。由々しき問題だ。不敬にも程がある」
セファイドは机に肘をついて、不機嫌そうに頭を掻いた。サリエルは苦笑いをしている。
「作者は不詳……販売経路は?」
「今ひとつはっきりしない。まあ調査すればすぐに分かるだろうが」
「では、書いた本人を見つけて、処罰なさるのですか?」
ううむ、とセファイドは唸った。
「そうしたいところだが……自分への風刺に腹を立てる狭量な国王と思われるのは癪だ。言論の自由を封じるのはオドナスの気風にも反するし、それに……」
「よく書けていますよね、これ」
「うん、面白いんだ。文章が上手いのはもちろんだが、何というか現実感があって、女向けの読み物なのにこう……妙に興奮する」
一回試してみるか、とセファイドが言うと、お断りします、とサリエルは即答した。
「そう目くじらを立てる必要はないでしょう。ご婦人方が密かに楽しまれているだけで、別に実害はありませんよ。幸い、作品は完結しているようですし」
表紙を指でなぞりながら、サリエルは気楽に構えている。その余裕の表情に、彼の主人は訝しげに目を細めた。
「おまえ、この作者を知っているのではあるまいな?」
「まさか」
「ふうん、ならいいが――とにかく様子を見よう。ああ、リリンスの目には絶対に触れぬよう、気をつけてくれ」
セファイドは椅子から立ち上がって伸びをし、大きな溜息をついた。
「こんなものが受けるとは……女の考えることは本当に分からん。世も末だな」
早朝、中央神殿の礼拝堂で日課の祈祷をしている神官長ユージュの元を、サリエルが訪れた。
「おはようございます。お仕事中、すみません」
「もう終わりましたから構いませんよ。おはようございます」
ユージュは祈祷書を閉じて、祭壇の前から下りた。
窓という窓から朝の柔らかな日差しが降り注ぎ、高い天井まで光に満ちている。実に気持ちのいい朝だった。
サリエルは微笑んでユージュに近づき、おもむろに布の包みを差し出した。
「これをご存じですよね、ユージュ?」
「何でしょうか?」
受け取った包みの中身は、赤い表紙の薄い本だった。三冊ある。
ユージュはちらりと目を上げ、サリエルの肩越しに礼拝堂の入口を見やった。彼女の副官であるカイが、そこでしきりと頭を下げている。
「……まったく口の軽い奴」
「やはりあなたでしたか、これを書いたのは」
「どうして分かりました? もしかして国王が調査を?」
「いえ、陛下は静観していらっしゃいます。この端正な装丁と印刷……神殿の機械を使ったものですよね」
見破った根拠をサリエルがあっさりと答えると、ユージュは薄い苦笑を浮かべた。その表情が正解だと告げている。
「あなたに文才がおありだとは知りませんでしたよ」
「お誉めに預かって光栄です。なかなか面白かったでしょう?」
「傑作ですね。売れているのも納得できます。ただ、題材に少々問題が」
その題材に使われた楽師は、皮肉ではない真面目な口調で言った。それを聞くユージュは悪びれる様子もない。
「ま、そうでしょうね。あなたと陛下には謝罪しなければ」
「どうしてこんな本を?」
「お金になるからに決まってます」
端的で、実も蓋もない回答だった。
「女性はね、こういうの好きな人が多いんですよ。特に後宮の妾妃たちは退屈してますから、普通とはちょっと違う刺激的な艶本、受けると思ったんですよね。そうしたら売れて売れて、末端の女官にまで広まって」
「あなたには商才もあるんですね……でも経済的に不自由はしてないはずでは? 神殿には唸るほど予算がつけられてるでしょう?」
「それはあくまでも神殿の予算。私個人が使えるお金なんてないですよ。だから、お小遣い稼ぎのつもりだったんです」
小遣いの使い道について、サリエルは何となく想像がついた。さきほどカイから聞いた話では、ユージュは珍しい食べ物、特に異国の菓子に目がないらしく、いろいろ取り寄せては試しているらしい。
神官長の舌と胃袋を満足させるために出汁に使われたサリエルは、さすがに溜息をついた。
「私から申し上げることは何もありませんが、この辺で自粛なさった方がいいと思いますよ。これ以上評判が広まると、厳格なお偉方の目にも留まります」
「ですね。ええ、もう続編は書きません。ご安心下さい」
ユージュは淡々と言って、本を返した。
「また違うネタを使いますから」
難解な数式を解いた学者のようなすっきりした表情で、彼女はサリエルの前を通り過ぎて行った。
それから一カ月後、知る人ぞ知る人気覆面作家の新作が発売され、王宮の女性たちを沸かせた。
男性に気取られぬよう、水面下で密かに読まれるその本の題名は『楽園の虜囚たち』――架空の某大国に捕らわれた属国の王子たちによる、禁断の恋愛絵巻であった。