第8話
こうも上手くいくとは思わなかった。
「ハンカチも?」
ネクタイと共に私の刺繍したハンカチも忍ばせておいた。
一度目の人生ではやらなかったことだが、なるべくならこのままロバートとの婚約を続けていきたい。── 長生きのために。
「刺繍、ずいぶんと上手くなったね」
「いやですわ。まるで今まで下手だったみたい」
二人笑い合えば、ジェーンは我慢できなくなったのか、顔を強張らせながらその場から走り去った。
「……君の新しい妹はどんな娘なんだい?」
ジェーンの背を見送りながらロバートが尋ねる。私の心臓がドキリと音を立てた。
こんなことがあっても、ロバートがジェーンに興味を抱くことは止められないのかしら?
「実は……あまり……」
私はドキドキする胸を少し押さえながら、申し訳なさそうにそう答えた。
「あぁ、そう言えば双子だと言っていたね。向こうは向こうで君を仲間外れにしてるってことか」
ロバートはそう言って不快そうに眉をひそめた。
……あら? これってあんまり悪くない傾向かも。
「仲間外れというわけではないのですが……必要最小限と言ったところでしょうか」
ここで露骨にジェーンの悪口を言うのは得策ではない。そう思った私はちょっとだけ困ったように首を傾げた。── こういうあざとさもちょっとずつ実践していこう。
すると、ロバートは私の肩にそっと手を置いた。
「もし……辛いことがあれば僕に相談して? 婚約者なんだから少しは頼ってくれていい」
「ロバート様……ありがとうございます」
私はそんなロバートに戸惑いながらも微笑んだ。── こんな風にロバートが私を労るなんて初めてだ。一度目の人生にはなかった出来事に正直動揺している。
もしかするとロバートとの婚約解消を回避出来たのでは?
そんな期待をしたが、人生そう甘くない。
そのことを理解したのはロバートの誕生日パーティーから約一ヶ月後のことだった。
「ロバートとお前の婚約は解消された。次の婚約者は追々考える」
父に呼び出された私は無情にもそう告げられた。
「え? ……それは何故?」
何故と尋ねながら私には理由が分かっていた。── 間違いない。ジェーンの仕業だ。
「お前にそれを話す道理はない。もう話は終わりだ」
父は出ていけと言わんばかりに私を『シッシ』と手で追い払う。
私は一礼して父の書斎を後にした。
扉を出た途端。廊下の壁にもたれるようにして立っていたジェーンがニヤニヤしながら私に言った。
「お生憎さま。ロバートは私の婚約者になるの」
やっぱりという気持ちにしかなれない。
私なりに努力してみたのだが……運命には逆らえないということだろうか。私は地下牢での出来事を思い出し、ブルッと震えた。
「フフフ。顔色が悪いわね」
嬉しそうにニヤニヤ笑うジェーンに、私は我に返った。
「少し疲れただけです。婚約、おめでとうございます」
私の言葉にジェーンは笑顔を引っ込める。
「悔しくないの?」
一度目の人生── ロバートとの婚約破棄を中々受け入れられない自分がいた。それはロバートに好意を持っていたから──ではなく、父がジェーンに何もかも与えてしまうことが悔しかったからだ。
でも、もう父に期待していない私は微笑んで答える。
「私とロバートの婚約も家に都合が良かったから。ならば私ではなくこの家の誰が婚約者になっても問題ないのでは? ── あぁ、ジェームズには無理ですが」
私はクスッと笑った。ジェーン顔がみるみる赤く染まっていく。
「だ、誰でもいいわけじゃないわ! ロバートが私を選んだの!」
「それはそれは良かったですわね。ゴールド伯爵家は由緒正しい家柄ですから、頑張ってくださいませ」
私はまたクスッと笑った。そう。ロバートの家は伯爵家ながら格式が高く、ロバートのお母様であるゴールド伯爵夫人は色々と厳しい方だとと専らの噂だ。私も彼とのお茶会ではゴールド家の屋敷に招待される度に緊張したものだ。
私はそれだけ言い残すと、ジェーンに背を向けた。背後で何やら喚いていたが、私はそれに耳を貸すことなく、そのままその場を去った。
その夜のことだった。
── コツン。何かが窓ガラスに当たる音がする。私はカーテンを開き窓の外を眺める。夜を彩る星の光と薄くなった三日月が空に浮かぶ。しかし、音の出処がわからない。
するとまたコツンと鳴った。私は意を決してバルコニーへと繋がる大きなガラス扉を開けた。
バルコニーの手すりまで近付くと、私のその姿を認めたのか、小さな声がどこからか聞こえた。
「アンジェリカ」
耳を澄ませていなければ聞き逃しそうなその声の主を探して私はバルコニーから下を覗き込む。そこには、ロバートの姿があった。
「ロバート?」
ロバートは何度も指を下に向けて私に何かを訴えている。下に降りてこいというジェスチャーだろうか?
私は少し離れたロバートにも理解できるように大きく頷くと、夜着の上にサッとガウンを纏う。
静かに部屋の扉を細く開ける。左右を見回し誰もいないことを確認すると、私はそっと部屋を抜け出した。
誰にも見つからないように私は裏口から屋敷を抜け出すと、先ほどロバートが居た場所へと歩みを速める。すると、向こうからロバートがこちらへとやって来るのが見えた。
「アンジェリカ」
「ロバート、どうしたの? こんな時間に── 」
私達はお互い声を潜めて話をした。
こんな時間にコソコソとロバートが現れたということは、あまり表立って話せる話ではないことは間違いない。
「僕たちの婚約のことだよ」
昼間、父に呼び出されて聞かされた話。ジェーンが誇らしげに話した自身の婚約について。──そう言えばジェームズの婚約もそろそろ整うのだと夕食時にリンダが嬉しそうに報告していたっけ。
「ロバート……婚約おめでとう」
私はちょっと悲しげに微笑んで首を傾げた。……少し儚げに見えるかしら。
「アンジェリカ、君はそれでいいの? 今回のことに納得してるの?」
私の両肩に乗せられたロバートの手が私は小さく揺さぶった。私は表情には出さないが内心驚いていた。
── 一度目の人生と違いすぎる。
一度目……ロバートは嬉々として私との婚約解消を受け入れた。
その後で、何度もうちの屋敷で会う機会があったけど……全く私の存在など目にも入っていなかったようだったのに。
「いいも何も……お父様とゴールド伯爵がお決めになったこと。私が反対出来るような事では── 」
「僕は嫌だよ!」
ロバートの大きな声が響く。彼はしまったというような表情で辺りを見回し、私の腕を引っ張ると二人で建物の陰に隠れた。
「僕は納得出来ない。だっておかしいじゃないか。家と家の繋がりならアンジェリカとの婚約を解消する理由がない」
ロバートの音量を抑えた声の中にほんの少しの怒りが混じる。
「きっと……ジェーンがそれを望んだのだと思います」
「何故? 僕と彼女は誕生日パーティーで出会っただけだ。それに……あの時も彼女はへそを曲げてどこかへ消えてしまったじゃないか」
私とロバートの前から走り去ったジェーンはただ、ただ会場に用意された食事を驚く程の量食べていただけだった。
「私にもわかりません」
私は小さく首を横に振って、俯いた。
いや、分かっている。ジェーンは私の嫌がることをしたいだけ。私から何もかも奪いたいだけだ。
「アンジェリカ……僕は父上に抗議し続ける。僕達は今まで上手くやっていただろう? 諦めるなんて嫌だ」
── まさかロバートがこんな風に私のことを思ってくれているなんて……。
一度目の人生と同様、ロバートとの婚約は解消された。だけど、この展開は全く予想していなかった。
二度目の人生。私が上手く立ち回れば、長生きできるかもしれない。
憤るロバートを他所に、私は決意をまた新たにしていた。




