第5話
物置へ行くには父達の部屋の前を通らねばならない。
私は足音をなるべく立てず、息を殺してその扉の前に差し掛かった。その間も雷鳴は容赦なく私の恐怖心を刺激し続ける。
急いで通り過ぎよう。私が足を速めた瞬間だった。
「だから言ったじゃない! アンジェリカを嫁がせればいいのよ!」
ヒステリックに叫ぶリンダの声が聞こえた。自分の名前に足が無意識に止まる。
「落ち着け」
「落ち着いていられないわ! 多額の借金よ? 落ち着けるわけ無いじゃない!」
漏れ出る父の声は困惑しているようで、リンダの声は今だヒステリックだ。
しかし……内容が内容なだけに立ち去ることも出来ず、私はそっと扉に近づいて二人の会話に耳を欹てた。
「大きい声を出すな。皆に聞こえたらどうする」
「こんな夜中に誰も聞いていないわよ! それにこの嵐で私達の声なんて聞こえないわ!」
── ここに聞いている人が居るとは、二人とも夢にも思っていないらしい。
「とにかく。なんとかするから──」
「もう無理よ! だからアンジェリカを── 」
「ダメだ!」
父が堪えきれなくなったかのように大きな声でリンダを制した。
「ランカスター子爵に嫁がせるのは、周りにも示しがつかない。流石に亡くなった妻の実家が黙ってはいないだろう」
ランカスター子爵……確か何回かの結婚と離縁や死別を繰り返している子爵で年齢が確か四十歳を超えていたはず。子爵として歴史は浅いが領地に鉱山があり、かなり裕福だと聞いたことがある。
女遊びが激しくその度に離縁や結婚を繰り返しており、社交界では鼻つまみ者だ。
そのランカスター子爵と……私が?
私の心臓がドクンと跳ねる。
今の短い会話を頭の中で反芻する。
父には多額の借金がある── らしい。しかし、それと私の結婚に何の関係が? その答えはリンダの次の言葉で理解出来た。
「今の今までアンジェリカを放っていたくせに、結婚だけに口を出すのはおかしいでしょう? そんなの無視すればいいのよ。せっかくランカスター子爵が借金を肩代わりしてくださるって言ってくれてるんだから」
「べ、別にアンジェリカを嫁にとは──」
「ならばジェーンを差し出せというの? そんな女癖の悪い中年に? 冗談は止めてよ!」
……借金を肩代わりする代わりに? 私を嫁に?
どういうこと?
リンダの言葉は続く。
「それに……あの子爵には黒い噂があるじゃない。死別した奥様の中には死因がはっきりしない方がいて── ほら、その……ね。子爵の責任を問う声もあったり……ね」
リンダの声が徐々に小さくなる。噂は所詮噂かもしれない──が、それって子爵が奥様方の死に関係してるってこと?
私の心臓がドキドキと音を立てる。
私がそのランカスター子爵と……?
私は頭をフルフルと振った。
冗談じゃない。そんなの……長生き出来ないじゃない!
「でも……どうしたら……」
私は無意識にそう呟いていた。
すると、扉の方へと足音が近づいて来る。
「喉が渇いたわ。果実水を貰ってくる」
── リンダだ。
不味い! ここに居ては立ち聞きしたことがバレてしまう。
私は慌てて踵を返す。
今来た道を引き返すために私は走り出した。
階段を駆け上がる。その時、足がツルリと滑った。
──落ちる!
後ろ向きに大きく身体が傾く。思わず何かを掴むような私の手が空を切った。
手摺りには程遠い。私は身体を支えることが出来ず、自分のこれからの運命を悟り、次に来るであろう衝撃に備えた。
無意識にギュッと目を閉じ、身体を固くする。──が、覚悟した瞬間は訪れず、私の身体はフワリと誰かの温もりの中に居た。
「大丈夫ですか?」
私の身体を抱き留め、心配そうに私の顔を覗き込む。── レイドだ。
「……レイド……?」
彼の身体は見た目より遥かにガッチリとしており、筋肉質だった。私は驚きと共に、まだ彼の腕の中に居た。
心配そうなその顔を私は初めてゆっくりと確認する。彼はいつもの分厚いレンズの眼鏡を外していて、その瞳を改めて見つめる。── どこかで見たことがあるような気がする。特にその瞳の色は私の昔の記憶を呼び起こしそうになり、何故か胸が不安で苦しくなった。
「お嬢様?」
名を呼んだままレイドの顔を凝視していた私にレイドの眉根が心配そうにキュッと寄る。私はそこで我に返った。
「あ、ありがとう。ごめんなさい……足を滑らせてしまって──」
私はしっかりと自分の足で立つ。彼もその様子に安心したように腕の力を緩めた。私はゆっくりとその腕から離れ、彼に小さく謝った。
しかし……レイドはこんな時間にどうしてここに居たのだろう。
私は今だ彼の顔をジッと見つめていた。すると、レイドはハッとしたかのように胸ポケットから眼鏡を取り出し、慌ててそれをかけた。
「いやぁ、無事で良かった」
レイドはニコリと笑顔を見せる。まるで何かを取り繕っているようだが、それが何なのかまでは分からない。
「へ、部屋に戻るわ。本当にありがとう」
私はもう一度改めて彼に礼を言った。
すると階段の上から声がかかる。
「アンジェリカ、どうした?」
私とレイドが二人で並び立つ姿に、ジェームズは少し訝しげな視線を寄越した。
私は上がり口から私達を見下ろすジェームズを見上げた。
「ちょっと私が足を滑らせてしまって……階段から落ちる所だったのを、レイドが助けてくれたの」
私が答えると同時にジェームズが降りてきた。その顔は少し青ざめている。
「大丈夫だったか?」
ジェームズが私とレイドの間に立つ。
「うん。ところで……ジェームズはどうしたの? こんな時間に」
「いや……ほら、雷が酷かったから、お前が怖がって物置きに行ってるんじゃないかって── 」
そこまで言われて私はいつの間にか雷のことを忘れていた自分に気がついた。




