第2話
── ガシャン!
何かが壊れるような音に、私の意識は浮上した。
瞼を開けるとカーテンの隙間から月明かりが部屋へと細長く届いていた。まだ夜は明けていない。
私は目をこすりながら体を起こした。
今だ何かが壊れるような音が続いている。微かな音だが、静かなこの夜更けには似つかわしいくない。
私は寝台から足を下ろし、床に置いてあったルームシューズに足を入れた。
目が覚めたついでに、水でも飲もう。私はガウンをサッと羽織ると、部屋の扉を静かに開けた。
厨房へ向かう。流石に真夜中なだけあって誰もそこにはいなかった。ふと気付くとあの何かが割れるような音は止んでいて、また静けさが戻っている── そう思った途端に、何処かで乱暴にドアが開けられた音がした。
嫌な予感── そういうものはよく当たる方だ。
私は水差しに水を汲んで厨房を出たその先の廊下てジェーンとばったりと出会してしまった。
ジェーンの目は赤く腫れている。── 随分と泣いたようだ。
しかし、私はまだ誰からも何も聞いていない。ここで下手に声をかける方が不自然というものだ。
私はジェーンを無視して、彼女の横を通り過ぎようとした。── が、その時ジェーンから腕をガッと掴まれる。その拍子に水差しに入っていた水がタブンと揺れて少し零れる。ああ……ガウンが濡れてしまった。
「何── 」
「ざまぁみろと思っているんでしょ!」
ジェーンがヒステリックに叫ぶ。静かな夜を彼女の金切り声が引き裂いた。
あぁ……やはり今日の話は婚約解消の件か──そう思った。
しかし、一度目の人生とは随分と様子が違う。
あの時もジェーンは今と同じように婚約解消したが、彼女は全く平気そうにしていたことを覚えている。しかし今世では随分とショックを受けているようだ。
一度目の人生ではロバートを私から奪ったという事実だけが、彼女の心を満たしていたようだった。ロバートはジェーンを愛していたから、婚約解消を酷く嘆いていたが、ジェーンはロバートを私から奪った後、いつの間にか急速に彼への興味を失っていたのかもしれない。
今世は── やはり一度目と何かが違う。ジェーンは本当にロバートを愛していた? ──いや、まさかそんな。
彼女にとって、ロバートは私に嫌がらせをするための道具に過ぎない。
「何の話?」
私は濡れたガウンの袖口を軽く手で払いながら、短く答えた。そこで初めてジェーンはハッとしている。……自分が余計なことを口にしたと気づいたのかもしれない。
「わ、私が……ロバートと婚約解消したって話よ!」
引っ込みがつかなくなったのか、ジェーンは自ら暴露した。
「へぇ~そう」
「それだけ!?」
ジェーンが何故か私をキッと睨む。私が何と答えれば彼女は満足するのか?
『可哀想』と同情しても『ご愁傷さま』と嫌味を言っても、どちらも怒りそうだが。
「何て言って欲しいの? 理由を細かく尋ねれば満足?」
ため息交じりに私がそう口にすると、ジェーンは案の定、私を怒鳴った。
「そうやって、いつも自分は関係ないって顔をして……っ! 気に入らないのよ!」
ジェーンは怖い顔をしたまま、私を両手で力いっぱいドン! と突き飛ばした。
不意を突かれた私は水差しを抱えていたこともあり、一、二歩後ろへよろけた。
「気に入らないって言われても……私に関係がないのは事実だわ」
ジェーンが涙目になりながら、私をまだキッと睨んだ。
あら? 今日は私の前でも本当に泣いているようだ。── 余程ロバートとの婚約解消がショックだったらしい。
ただ、睨まれたところで彼女に対して何の感情も湧かないことは、動かしようのない事実だ。
「お父様にお願いして、もっと良い相手を見つけてもらうから」
私を睨みつけながら、ジェーンはそう宣言した。
だから何? ── そう思ったが、これを口にすれば火に油を注ぐこと間違いなしだ。
「……」
答えに困る。無言になった私にジェーンは少しだけ勝ち誇ったような顔をした。
「絶対、あんたより幸せになってやるわ」
『幸せ』の定義も尺度も人それぞれだ。どうやって比べようというのか……。
「ご勝手に── 」
私が最後まで言い終わる前に、ジェーンは私の肩にぶつかりながら厨房の方へと向かった。
言いたいことを言うだけ言って去っていく。
──本当に迷惑な女だ。
「ロバートとジェーンの婚約がなくなった」
やはりと言うべきか。この情報を私にもたらしてくれたのは、ジェームズだった。
学園の昼下がり、ジェームズは複雑そうな顔で話し始めた。
「昨日、ジェーンから聞いたわ」
私はサンドイッチにパクリと食いつきながらそう答えた。
「驚かないの?」
そう言われてサンドイッチが喉に詰まる。
「グッ……」
「おい、慌てて食べるなよ。誰もお前のサンドイッチなんて盗らないから」
ジェームズが急いで私の口元にアイスティーを運ぶ。私はそれをむんずと掴むと、急いでアイスティーで流し込んだ。
「はぁ……危なかった。── 別に驚いていないわけじゃないわよ? でも、どうしてそんなことになったの?」
私は白々しくそう尋ねた。
「ほら、今の事業にさダヴェンポート公爵も出資してるって話しただろう? 結局、公爵は大口の取引先まで開拓してさ、父さんはその事業ではめっきり影が薄くなっていたんだ。だけど、それでも一応実入りはあるし、ジェーンがロバートと結婚すれば安泰だ── そう父さんも考えていたんだろうけどな」
婚約解消の理由は知っているが、私はとぼけてジェームズに先を促した。
「それで?」
「で、だ。そのダヴェンポート公爵には娘がいてさ。その娘がロバートを気に入ったって話だ」
そう。ダヴェンポート公爵の次女であるイゾルデ様が仕事で公爵家を訪れたロバートに一目惚れした── これは一度目と全く同じだ。イゾルデ様は今十四歳。ロバートとは七歳程の年の差があるが、これぐらいは珍しくない。
一度目の人生ではジェーンを愛していたロバートは嘆き悲しんだ。しかし、家の決定には逆らえず、泣く泣くジェーンとの婚約を解消したのだが……さて、今世ではどうだろう?
「へぇ……。まぁ、うちとダヴェンポート公爵家とでは格が違いすぎるし……お父様もそれには手出し出来ないわね」
私とロバートとの婚約解消には尽力した父も、今回ばかりは役に立たないだろう。
「だな。ゴールド伯爵もダヴェンポート公爵にそう言われては断れない。── まぁ、ロバートもゴールド伯爵も正直ホッとしているみたいだけどな。俺もそれを聞いて……ロバートの気持ちを考えるとジェーンが一方的に可哀想だという気にもならなくて」
ジェームズはそう言ってバツが悪そうに頭を掻いた。
ジェームズは相変わらずロバートとは仲が良いみたいだし、彼の本音を知っているのかもしれない。
「でも……昨日泣いていたみたいよ、本当に」
私はまたサンドイッチを頬張った。今度はあまりたくさんを口に詰め込むことは止めた。また喉に詰まると困る。
「う……ん。まぁ、な。婚約解消の話を父さんから聞かされた時は怒っていたんだけど、夜中、急に辛くなったみたいでな。ロバートに貰った贈り物を粉々に壊して……泣いてたみたいだ」
そう聞くと、少しだけ胸が痛む。……少しだけだが。
「ロバートのこと……好きだったのね」
「それはどうかな? 好きっていうか……依存? みたいな……」
ジェームズが何処となく歯切れが悪い。
「依存?」
「うん……。ほら、ゴールド伯爵夫人って厳しいだろ? 俺はそこに無理矢理連れて行く嫌な奴で、敵認定っていうかな? 最近はめっきり嫌われてたし……。ロバートは結局優しいからな。何だかんだジェーンを慰めてやってたんだよ」
あぁ……そうか。一度目の人生ではジェーンにはジェームズもロバートも居た。味方には事欠かなかったってわけだ。
学園でも私が課題を代わりにやっていたし、試験だって私が要点を纏めていた物を横取りして良い成績を収めていた。
今世のようにゴールド伯爵夫人からジェーンが厳しく鍛えられることも、家庭教師から長時間勉強を習うことも無かった。
ジェーンは一度目の人生ではもっと要領よく立ち回っていたことを私は思い出していた。




