第4話
瞼をゆっくりと開ける。目の前には見知らぬ天井と心配そうなジェームズの顔があった。
「アンジェリカ!? 大丈夫か?」
ジェームズの焦った声が聴こえるが、頭がボーッとしていて、直ぐに答えることが出来なかった。
「アンジェリカ?」
ジェームズがまた私の名を呼ぶと、別の顔が私を覗き込んだ。
「目が覚めたかな。君はテラスで意識を失って倒れたんだよ」
その人物が私の手首をそっと掴む。
「うん。脈に異常はないね。顔色も戻ったみたいだ」
「先生、アンジェリカは大丈夫なんですか?」
ジェームズが『先生』と呼んだ人物。あぁ、そういえばこの白髪の男性は学園の校医だ。
私はそこで何となく自分の今の状況が把握できた。
「ジェームズ、私── 」
「ゴミを捨てに行ったと思ったら、そこで倒れたんだ。お前にぶつかった女生徒が真っ青な顔をしてたよ」
ぶつかった女生徒……あぁ、ゴミ……ゴミが散らばって……。
そこまで思い出して、急に息が苦しくなった。
アッシャー殿下……。そうか、この学園で見かける可能性を失念していた。
一度目の人生で淑女科だった私が王族と出会うことなどなかったからだ。
ゼイン殿下もアッシャー殿下も……騎士科に入学した今となっては、その可能性を理解していなければならなかったのだ。
しっかりしろ! アンジェリカ。
もう私はあの時の自分じゃないんだからと自分に言い聞かせる。
私は乱れた息を整えるように大きく息を吐き出した。
「ごめんなさい。何だか急に気分が悪くなって── 」
あの瞬間、あの時の恐怖が蘇った。私はその記憶に飲み込まれてしまったらしい。まさか……意識を失うとは思っていなかったが。
私は何度も心の中で『大丈夫、大丈夫』と繰り返す。今の私は違う人生を歩んでいるはずだ── と。
「貧血もないし、脈の乱れもない。詳しい検査をしたわけじゃないが、大きな異常はみられない。君が倒れた原因ははっきりしないが、もう気分が悪くなければ、ここでゆっくり休んでから屋敷へ戻るといい」
校医にそう言われ、私は軽く頷いた。
「いえ、もう大丈夫です。授業に戻ります」
そう言って体を起こそうとする私をジェームズが慌てて止める。
「おい! 今日はもう休め。授業が終わったらここにまた迎えに来るから、一緒に帰ろう」
「でも── 」
体調が悪いわけではない。ただ、不意にアッシャー殿下に出会ってしまい、どうしょうもない程の恐怖を感じただけだ。
これから二度と顔を合わせず学園で過ごす……それはきっと難しいが、もう心の準備は出来た。きっと大丈夫。
「せっかくだから、放課後までここで休んでいるといい。今日一日はゆっくり過ごしなさい」
校医はそう言って微笑んだ。しわの多い彼の笑顔に少しホッとする。
「── じゃあ、そうします。ジェームズ、貴方は授業に戻って?」
私がそう言うとジェームズは残念そうに口を尖らせた。
「チェッ、せっかくサボれると思ったのに」
「残念だったわね。私はここでもう一眠りするわ。── もしかしたら寝不足だったのかもしれないから」
私がそう言って微笑むと、ジェームズはホッとしたような表情になった。
「なら、ゆっくりしとけよ。お前が倒れて生きた心地がしなかったからな」
ジェームズはそう言うと、私の頭を撫でた。
「じゃあ俺は教室に戻ります。アンジェリカをよろしくお願いします」
ジェームズが校医に小さく頭を下げ私の元から離れていく。私がその背を横になったまま見送っていると、ジェームズが徐に振り返った。
「あ、そうだ。ゼイン殿下に会ったら礼を言えよ。ここに運んで来てくれたのはゼイン殿下だからな」
「えっ── ?」
私は絶句した。倒れた私をゼイン殿下が? ここに? 何故?
疑問が後から後から湧いてくるが、それよりもゼイン殿下の手を煩わせたことに申し訳なさで頭がいっぱいになる。
「じゃあな」
アワアワしている私を他所に、ジェームズは軽く手を上げて部屋を出て行った。
私は校医に視線を移す。
「ゼイン殿下が、私を?」
「ええ。貴女を抱えて走って来ましたよ。あんなに慌てた殿下を見たのは初めてです。それに君の弟さんも、真っ青な顔をしていた。お姉さん想いだね」
常々シスコンと揶揄されるジェームズが心配してくれたのは想像出来るが、何故ゼイン殿下が? あの時あのテラスに居たかしら? いや、そもそもたとえあの場に居たとしても、ゼイン殿下が私を運ぶ意味が分からない。
ぐるぐると思考を巡らせて混乱している私に校医は笑った。
「心配しなくていい。ゼイン殿下はああ見えてとても優しい方だ」
私は校医の顔をジッと見つめる。彼はゼイン殿下の本質を知っている人物のようだ。
「はい── 理解しています。ただ、申し訳なさで居た堪れなくなりましたけど」
私のその答えに校医は『おやっ?』という表情を一瞬見せた。そして穏やかに笑う。
「そうか。君はゼイン殿下の為人を知っているようだね。── さぁ、お喋りはここまで。ゆっくり休むといい。寝不足は肌にも悪い」
「はい。では美容のためにも今日はここでサボらせていただきます」
校医は軽く頷くと寝台の周りのカーテンを閉めてその場を去った。
私は天井を見つめる。
大丈夫。私はもうアッシャー殿下に心を動かされることも、騙されることもない。もう恐怖に飲み込まれることもない。
私が彼のゼイン殿下への殺意を知っていても……今の私にはどうする事もできない。
そう思うと何故か胸が苦しくなった。
ゼイン殿下は……いつの日かまたアッシャー殿下に命を狙われるのだろうか。
今の私には祈ることしかできない。
アッシャー殿下の企みが失敗しますように── と。




