第21話
自分が流した涙の意味が分からずに戸惑っている。
しかしそれよりも慌てているのはジェームズの方だった。
「そんだけ腫れてるんだ。痛いに決まってるって。ほら、冷やしに行くぞ!」
ジェームズが私の手を握り、引っ張って歩き出す。
「どこに行くの?」
「厨房! 冷たい水、貰いに行こう」
ジェームズの背中がいつもより大きく見えた。
「ジェームズ……なんだが肩幅が広くなった?」
場違いな私の質問にジェームズは呆れたような声を出す。
「い、今はそんなこと関係ないだろ」
そんな風に答えながらもジェームズは歩みを止めない。
厨房にたどり着くと、ジェームズが一人中へ入る。
「その顔……使用人に見られたくないだろ。お前はそうだな……あそこの部屋で待っててくれ」
ジェームズが指差しだのは厨房近くの書庫だった。父が使う書類や私達の勉強に使う本が置かれている。図書室……というほど立派なものではない。
私は指示された通り書庫の扉を開けた。少し埃っぽい書庫に足を踏み入れると、一瞬で紙の匂いに包まれた。
私はそこで自分の涙のわけを考えてみる。頬に再度そっと触れるが、もうその頬は渇いていた。
頬が痛いから……ではないことは自分でも理解していた。
私は自分の着ているシャツの袖口をそっと摘む。ジェームズに貰ったお下がりだ。
あぁ……そうか。私はいつの間にかジェームズに心を開いていたのだ。
だから彼に拒絶され……ショックを受けた。
それに気づいた私は頭を強く振った。ダメだ!
もう誰にも期待しないと決めたじゃないか。アッシャー殿下に裏切られた時の気持ちを忘れたことはなかったはずなのに……。
ジェームズがあんな風に怒った理由……それはきっと自分だけが事実を知らされていなかったことへの憤りだろう。
もしかすると自分の母親の不貞に嫌悪感を持ったのかもしれない。
ジェームズはまだ十一歳。
割り切るにはまだ幼いことを、私は自分が死に戻りであった為にすっかり忘れていた。
ギィッと扉の開く音がして、私はそちらに顔を向ける。
そこには水を張った桶と布切れを手に持つジェームズの姿があった。
「そこの椅子に座れよ」
両手が塞がっているジェームズは顎で壁際にある丸椅子をしゃくって示す。
私は黙ってその椅子をズルズルと引き摺って持ってくると、ストンと腰掛けた。
ジェームズは床に桶を置くと布切れを浸す。ギュッと絞ったかと思うと、私の頬にピトッと付けた。
「冷たい……」
「冷やす目的なんだから当たり前だろ。……誰にやられた? また、ジェーンか?」
「ううん……違う」
ジェームズの手が頬にあるため私は小さく首を振った。
「じゃあ誰だ? ── まさか……父さん?」
私は答える代わりにジェームズに尋ねた。
「お父様と……何か揉めてたの?」
ジェームズの手がピクリと動く。
「まさか殴れれたのって俺のせいか!?」
私は慌てた。
「ち、違う! ジェームズは関係ないの。お母様の……亡くなったお母様のことを悪く言われて、つい言い返してしまった私が悪かったの」
一度目の人生。父に口ごたえなどしたことがなかった。この結果はそのせいだ。
それを聞いてジェームズは少しホッとしたような表情を一瞬浮かべたが、直ぐに険しい顔に戻る。
「やはり父さんが……」
ジェームズは私の頬から布切れを外すと、また桶の水に浸した。その手が小さく震えている。
「ジェームズ、水、冷たいでしょう? もう後は自分で── 」
「アンジェリカ、無理して笑わなくていい。実の父親に手をあげられたなんて……辛かっただろ?」
……確かに驚いたし、ショックだった。だが涙を流す程じゃない。それよりジェームズに拒絶された方が心が痛かった── なんて自分でも驚きだ。
「さっきも言ったように、私が反論したのが悪かったのよ。お父様が……私を嫌っているのは分かっているもの」
私がそう言って微笑むと、ジェームズはますます辛そうな表情になった。
「俺たちの……せいだよな」
「それは違うわ。二人がいてもいなくても、お父様は私が嫌いなの」
ジェームズはまた布切れをギュッと絞ると、私の頬へそっとあてた。
「それは……母さんや俺たちの存在があったからだろ。だって俺たちとお前は……半年しか……」
ジェームズが泣きそうな顔をした。別にそれは彼のせいじゃないのに。
「男って嫌だね! 男は浮気する生き物なんだって、なんかの本に書いてあったもん」
私は殊更明るくそう言った。ジェームズに辛い思いをさせたいわけじゃない。
ジェームズは急に明るくそう言い放った私に少し面食らったような顔をしたが、すぐに小さく苦笑いをした。
「お前、どんな本読んでるんだよ」
「うーん……なにかの恋愛物だったかしら?だから私は結婚せずに剣の道に生きるって決めたの!」
「だから……って。男が皆そうなわけじゃないけどな」
ジェームズはまた布切れを水に浸してギュッと絞る。まだ私の頬は赤く腫れているのだろうか?
「まぁ……どうせ私に碌な縁談なんて来ないだろうし、ちょうど良かったのよ。学園に入学するまでに婚約者が決まらなければ騎士科への入学を許可するってお父様も約束してくれたし」
「じゃあ……お前は結婚しないのか?」
ジェームズの手が止まる。
「うん。私は立派な騎士になる。……そう決めたの」
その言葉を聞いてジェームズはまた私の頬へと布切れをあてた。
「そうか……。うん……いいんじゃないか? それで」
まるでジェームズは自分に言い聞かせるように、ウンウンと頷きながらそう呟いた。




