優しさは枯渇する
人間。誰かに尽くそうと生きていくと、ふとした瞬間に、自身の存在意義を見失うことがある。
それは、往々にして、尽くす相手が成り果てた時。
冷静さを取り戻すと、今度はそれまでの時間やお金を無駄にしたことに対し、絶望といえるほどの後悔が生まれ、自身のアイデンティティと、生活が崩れ去って行き、生きることを雑にしてしまう。
もう、そうなれば誰かに優しくしようなんて、思わなくなる。
そう、自分にさえも。
だって、そうだろ?
心の中の優しさが、枯渇しちゃったんだからさ。
「や、やめろ…な。そんなの降ろせって」
腰を抜かし尻をついて後ずさる男。
その前に立つのは、片手に包丁を持った女。
女の目は冷たく、何の感情も映していない。
「も、もう一度、チャンスをくれ!なっ…なっ?」
命乞いを続ける男。
チャンスなんて腐るほどあったじゃないか…。
「あげるわよ。上手く行けば、大好きな異世界転生できるかもね」
包丁を逆手に持ち替え、男の腹を目掛けて突き刺した。
逃げられないように、足の上に座り込み、腹を手で庇えば胸や、庇うその腕に包丁を下ろす。
気がつけば男は動かない、床は男を真ん中にして黒ずんだ赤い液体が広がっている。
「はぁ〜っ!終わった」
立ち上がって伸びをする。
だけど、胸に空いた隙間は埋まっていない。
「さてと、仕上げていきますかね」
予め明け放っておいた窓からベランダへ出る。
有名な夜景ではないけれど、少しだけ綺麗に見えた。
ここはマンションの九階。
上手く行けば、私も異世界に旅立てるのかな?
◆
なんで、忘れていたのだろう。
私の最期は過労なんかじゃなかったんだ。
「いけないね。封印が緩んでしまったかな?」
優しい男性の声音。
暖かく大きな手が私の目元に当てられる。
「もう少し、この記憶は眠らせておくよ。大丈夫」
声が遠くなっていく。
◆
「んぁっ!」
衝撃的な夢を見ていたような気がする。
寝間着のパジャマが、汗でぐっしょりと濡れていて、気持ちが悪い。
ここは、自室のベッドの上。
私はフリーデリケ・アスカニア。
アスカニア侯爵家の息女である。
「大丈夫……か」
ベッドを抜け出して、汗に濡れたパジャマと下着を脱ぎ捨てる。
湯で濡らしたタオルで身体を拭きたいが、外はまだ暗いこんな時間に、ハンネを起こしたくはない。
衣装クローゼットの中の引き出しから、新しい下着をつけ、こちらも洗ってしまってあったパジャマをその上から着る。
これだけでも違うな。
再び、ベッドに潜り込み目を閉じた。
夜が明ければ、また、優しさの大安売りだ。
◆
治療院を始めて、一年が経っていた。
星メモの世界には病気を治す魔法がない。
なので、病気に関しては各種薬草だよりなのが現実だが、診断できる知識もない。
せめて、鑑定スキルが医学にも使えればと、そう思えたシーンを何度も見、知人の命を看取ったこともある。
ケガについては、腕がなかろうが直してみせるので、相当の評判だ。
「あぁ〜っ!今ので最後だな」
椅子の上で伸びをする。
「おつかれさん。今日はもう来てないね」
治療院の制服を着たガラハウが、お茶を淹れて持ってきていた。
それを、私の机の上に置く。
「ありがたい」
「もう、一年なんだよね」
お盆を胸に抱き、窓の外を見ているガラハウ。
視線の先には木剣を振っているエギーユだ。
うぉ〜っ!あまずっぺぇ〜。
恋ですか?恋ですよね!
「筋は良いって、オットーが言ってたな」
「ふえっ?!な、なんだよいきなり」
年増な雰囲気を出してはいるが、こういったところは乙女なんだなと思う。
「ん?エギーユの剣の腕だが?」
「はぁ〜…そうだった、そういうヤツだったね。アンタは」
今日の治療記録を、お茶を片手に読み返す。
ここへ足を運ぶのは怪我よりも病気が多い。
セキ、くしゃみ、発疹、腹痛、頭痛と愁訴は多種多様。
医療の知識なんて、三十路時代に見ていた医療ドラマからの知識しかないうえに、レントゲンもMRIやCTもない。
なのて、古から口伝のみで伝わる、民間薬草学(?)をノートにまとめているのだが、兎に角、体系化が雑で同じ症状に、別の薬草を使うこともザラだ。
症状が同じでも、根本が違うことがあるのは分かっているのだが、その見極めについては曖昧でみな違うようだ。
正直。十一歳の私がやることではない。
しかし、これが『星屑の御子』の制約だ。
無償の愛を大盤振る舞いする。
「なんだい?ちょっと顔が赤いね」
「そん…な。」
自身の額に手を当てると、熱い。
「ガラハウ。マスクを着けて、私から離れるんだ」
「熱があるのかい?」
ガラハウの問いに頷く。
「分かった。ラトーラにも言っておくよ」
ラトーラならば薬草の手配もしてくれるだろう。
さて、屋敷へはどうやって帰ろうか?




