1-4 ミセラの王冠
深夜2時。
横からは、ぐーすかぴー、と気の抜けた寝息が聞こえてくる。
ぐっすり眠るライカの鼻を悪戯心でつまんでみると、ぽかんと口が開いたまま、いびきがピタッと止まる。
指を離すと、フゴッと鼻を鳴らして、また可愛いいびきが始まった。
「ははっ」
とびきり美人が見せる、油断しきったまぬけな姿。
これを見るためだけに、ついつい夜更かしをしてしまう。
いびきをかくライカを見れるのは、俺だけの特権だった。
そして、玄関で奇妙な物音がしたのは、それから十分も経たないうちだった。
がさごそと、誰かが忍び足で動く気配がする。
やがて、ガチャリと静かに鍵が開く音がして、バタンと小さく扉が閉まった。
こんな夜更けに、一体どこへ行くのか。
姿は見えずとも、こんな時間にこっそりと出歩きそうなのは、一人しか思い浮かばない。
犯人が誰なのか、見当はついていた。
ライカに布団を掛けなおしてから、静かにベッドを抜け出す。
「……どこ行くの?」寝室を出ようとドアノブを掴んだところで、ライカを起こしてしまった。
眠そうな声が暗がりに響く。
寝てていいよ、と俺はすぐに言った。
「ちょっと散歩だ。ついでに、家出少女を捕まえてくる」
「私も行くよ」
「いいよ。まかせてくれ」
たまには父親役として格好をつけさせてほしい。
そう言うと、ライカは少しだけ間を置いてから、「……わかった」と微笑んだ。
「ありがとね、シュラ」
こちらこそ、いつもありがとう。
そんな言葉の代わりに彼女の額にそっとキスをした。
寝室を出て、外套を羽織り、靴を履く。ランタンを手に取り、玄関の扉を押し開けた。
さて、あの家出少女は、一体どこに行くつもりだろうか。
外に出る。この季節の夜は、まだ少しだけ肌寒い。外套を羽織ってきて正解だった。
田舎の空気は澄んでいる。
今宵は新月。4月の星が、やけにくっきりと輝いて見えた。
「お嬢ちゃん。こんな時間にどこ行くの?」
孤児院を出てすぐの道で、寝間着姿の小さな少女を見つけた。
「…………」
後ろから声をかけると、ナナは足を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。
相変わらずの無表情。俺を見ても、彼女はとくに驚いた様子を見せなかった。
「家出でもするつもりか?」
ナナはゆっくりと首を横に振る。
「なら、散歩か? どちらにしろ、こんな時間に一人は危ないぞ」
俺は足元にランタンを置く。
自分の外套を脱いで、ナナの華奢な肩にそっと羽織らせる。
大人用の外套は、彼女の小さな身体にはあまりにも大きすぎた。
「…………」
少女は口を閉ざしたまま、顔を伏せる。
「よし、湖に星でも見に行くか」
今宵は星がよく見える。きっと湖面にも綺麗に映るだろう。
俺はナナの脇に手を入れて、ひょいと持ち上げ、そのまま自分の肩に乗せた。
「高いの平気か?」
ナナがこくりと頷く気配が、俺の首筋に伝わる。
「そうか。じゃあ、このまま歩くか」
肩車をして、湖畔までの夜道を歩く。
俺が黙っているので、ナナも口を開かない。
しんと静まり返った深い森を抜けていく。
月明かりはなく、道を照らすのは、ランタンの頼りない細い灯りだけ。
蛙と虫の鳴き声、そして遠くからの川のせせらぎだけが、夜の闇を満たしていた。
――この子は一体、今までどんな人生を歩んできたのだろうか。
誰かにこうして、肩車されたことはあるのか。
誰かと手を繋いで歩いたことは?
転んだとき、抱き起こしてもらったことは?
熱を出した夜、額に手を当ててもらったことは?
失敗して泣いてしまったとき、怒られながらも涙を拭ってもらったことは?
何となく寂しいとき、ぎゅっと抱きしめられたことは?
そして……誰かに、愛されたことは?
無口な少女は、自分の過去も、今の気持ちも、何も語ってはくれない。
ただ、歩みを進めるたびに、俺の頭の中はナナのことばかりでいっぱいになった。
やがて、視界が開けて、湖畔に出る。
空と湖の境目が、完全に溶けてなくなっている。
そこには、上下反転した星々の世界が、どこまでも果てしなく広がっていた。
ランタンの火を消し、湖畔に置かれた古びたベンチに、二人で並んで腰を下ろす。
しばらくの間、俺たちは言葉を忘れ、ただ静かに星空を眺めていた。
「綺麗だなあ」
横目でナナを見る。
やはり、その表情は動かない。
「寒くないか?」
星空を見上げたまま、彼女は小さく首を縦に振る。
「綺麗だろ?」
再び、こくりと頷く。
「星は好き?」
今度は、何も答えない。
寄せては返す静かな水の音だけが、周囲にしんと満ちている。
「……俺は結構好きなんだ、星。星座とか、神話とか」
今から千年前、神話の時代。世界から消えてしまった七つの星座と、七人の使徒。
東の空に赤く滲んだ『呪殺の花座』。
西の空に傾く『祝福の天秤座』。
月の傍で滴り落ちる『銀血の涙座』。
――いや、やめておこう。これ以上は長くなる。
「……そ、それ、ほし、です。な、なぜ、ほしを……いれて、いるですか?」
「え?」
突然、ナナが口を開いたので驚いた。
先ほどまで星を眺めていたはずのナナの視線が、今は、俺の右手首にある黄色の八芒星のタトゥーに向いている。
「好きだし、かっこいいからだよ」俺は照れくさく笑って、答える。
「それにこの星は、希望を運んでくれるんだぜ」
「ほ、ほかにも、タ、タトゥー……いっぱい、です、か、からだに。なぜ?」
「えーっと……」
なぜと真っすぐ聞かれても、答えに困ってしまう。
「いっぱいあった方が、なんかカッコいいだろ?」
さすがにその適当な言い訳には共感してはくれなかったが、ナナは次に、俺の右手の甲を、爪の伸びた指で差した。
「……こ、これ……か、か、かっこいい、です。はっぱの、か、かんむり、ですか?」
「あ――うん」
見れば、ライカに貼ってもらったはずの絆創膏が、いつのまにか剥がれ落ちていた。
星の光の下で、白く浮かび上がる月桂冠の刻印。
「こ、この、は、はっぱの、か、かんむり、ちがいます。……ほ、ほかのと、ち、ち、ちちがいます。……こ、これ、う、うつくしい、です」
「え……? ああ、うん。ありがとう。……でも、これは失敗作だよ」
そう誤魔化して、俺はそっと右手の甲を反対の手で隠した。
――これは、タトゥーではない。
生まれつき、この皮膚に深く、呪いのようにして刻まれている。
【月桂冠の刻印】
――それは『ミセラの王冠』を意味し、かつて世界を創造した『はじまりの神』が、ミセラの支配者として選んだ者へ授ける絶対の証。
俺はこの世でただ一人、はじまりの神から祝福として、『世界の権能』を与えられた。
この刻印を持つ者が最後に現れたのは、今からおよそ八百年前。
もはや、おとぎ話の絵本の中にしか存在しないはずの代物。
もしこの世に神がいないのならば、こんなもの、ただの奇妙な痣だと笑い飛ばせた。
だが、この世界には厳然として神が存在している。
神がいるからこそ権能があり、魔術、呪術、祈祷術、超能力といった異能が存在する。
ミセラ大帝国が滅びて800年。
《グラキエ》《アルトリア》《ルセラ》をはじめとする、いくつもの国家が興り、それぞれが長い歴史を紡いできた。
今さら、ミセラが再び一つになることなどありえない。
ミセラを支配する絶対の王など、世界の誰もが望んではいない。
本物だからこそ――いずれこの刻印は、果てのない争いを呼ぶ。
そして、やがては、ミセラを終焉へと導くだろう。
この刻印の存在は、決して知られてはならない。
木を隠すなら森の中。だから俺は、この身体にいくつものタトゥーを刻んだ。
「か、か、かくさないで。かか、かんむり、す、す、すてき、です」
その時、ナナが初めて笑顔を見せた。




