1-3 ハニーバニー
明日が休みということもあり、今日はいつもより遅くまで工房に残った。
静まり返った孤児院に帰ってきた頃には、すでに23時を過ぎていた。
子供たちはすでに、ぐっすりと就寝している。
――つまり、今はライカと二人だけの時間。
ふわりといい匂いが広がっている。
食卓には、ライカが俺のために作ってくれた料理が丁寧に並べられている。
卵焼き、味噌汁、ほうれん草の胡麻和え、切り干し大根、鯛の煮つけ、沢庵に白ご飯。
どれも昔ながらのカミノ料理で、ばあちゃん院長仕込みの優しい味だ。
「そういえば、最近ミユキが料理に興味持ち始めたんだよ」
正面に座ったライカが、お茶を淹れながら言った。
「まじで?」
「うん。おままごとじゃなくて、パパには本物の手料理を食べてほしいんだって」
「あ、やばい。泣きそう」
思わず箸を止めて目元を押さえる。
「泣くのが早いよ。親ばかだなあ」
ライカは呆れ半分にクスッと笑った。
「まあでも、ミユキの手料理なら、俺は泥でも美味しく食べれる自信があるけどな」
「前に、本当に泥団子食べて、お腹壊したの忘れたの?」
「忘れた」
「これは一刻も早く、ミユキに料理教えないとね。シュラがまたお腹を壊す前に」
「何から教えんの? やっぱおにぎりとか?」
「まずは卵焼きかなあ。私も院長には、最初に卵焼きから教わったし」
「そっかあ。卵焼きかあ。楽しみだなあ」
うちの卵焼きは、少し甘めの味付けだ。昔から、俺の一番の大好物。
でもたぶん、ミユキが小さな手で一生懸命作ってくれた卵焼きを出されたら、俺は美味いと言うより先に泣く気がする。いや、確実に泣く。
ばあちゃんからライカへ、ライカからミユキへ。
血は繋がっていなくても、きっとこうやって、この家の味は続いていくのだろう。
……そうだといいなあ。
俺はひたすらに箸を進め、「おいしい! 本当においしい!」と何度も繰り返す。
ライカは頬杖をついて、ニコニコと楽しそうに俺の食べっぷりを眺めている。
「幸せだなあ」と俺の口から思わず零れる。
すると、ライカは悪戯っぽく微笑みながら、「あたりまえじゃん。私と一緒にいるんだから」と、迷いなく胸を張った。
やっぱり好きだなあ、と口に出そうになるが、今度は心の中だけで留めておいた。
「ごはん、おかわりは?」
「いる」
「特盛? 大盛?」
「特盛。あと味噌汁もおかわり!」
「はいはい、了解」
キャベツと玉ねぎの入った味噌汁に、ほかほかの山盛りごはん。
「ありがとう。ハニー」と俺がウィンクすると、ライカは、すんと真顔になって、「きもい」と言う。
「えー」と甘えた声を出しても、ライカはつんとした態度のままだ。
「ハニーって呼び方、なんか嫌」
「なんでよ、いいじゃんか。じゃあ、ライライに戻す? それか、ハニーバニーとか」
「なんで、普通に呼ぶって選択肢はないのよ」
「愛称ってさ、なんか恋人っぽいじゃん」
「そうかなあ」
ちなみに、これまでのライカの愛称の変遷は、
『ライカ』→『ライライ』→『ライちゃん』→『ラーちゃん』→『ちゃんラー』→『ラーメンちゃん』。
ここでようやく迷走していることに気づき、一度は『ライカ』に戻したものの、やはり普通ではつまらないと思い、そこで最近観た外国映画の影響を受けて、『ハニー』に落ち着いた。
しかし、残念ながら、これも不評のようだ。
「じゃあさ、なんか呼ばれたい愛称とかないの?」
「ママとか」
「え……?」
箸を持ったまま、動きが止まる。
「ばーか」とライカは笑った。「冗談だよ」
「……ごめん」
そう口にし、すぐに後悔する。
ライカが求めているのが、「ごめん」なんてしょうもない言葉じゃないことくらい、彼女の顔を見ればすぐにわかった。
それでも、俺はきつく唇を噛み締め、喉元まで出かかった言葉を無理やり呑みこむ。
結婚しよう、という言葉を簡単に口にすることができない自分が、酷くもどかしい。
「ほら、また引っ掻いてるよ」
「……あ、うん」
指摘されて気づく。
いつのまにか、俺は右手の甲を爪で激しく引っ掻いていた。
昔からの癖だった。
俺の身体はタトゥーだらけだ。
特に、右半身は肩から指先まで埋め尽くされている。
右手の甲にあるのは、勝利と栄光のシンボルである――『月桂樹の冠』。
強く掻きむしったせいで、その輪郭はうっすらと赤く血で滲んでいた。
「こっちこそ、ごめんね」
ライカは静かに立ち上がると、救急箱から絆創膏を持ってきて、右手の甲にそっと貼ってくれる。
「私は、いつまでも待てるから」
彼女に、こんな顔をさせる自分がふがいなく、やるせない。
絆創膏の下に隠れた、月桂冠の刻印。
このまま消えてくれればいいのにと、切に願わずにはいられなかった。
食事を終えると、いつものようにライカがコーヒーを淹れてくれる。
角砂糖二つに、ミルクはたっぷり。
ティースプーンでからんからんとかき混ぜる。
「「乾杯」」
まだ酒を呑めない俺たちは、いつも晩酌の代わりにコーヒーで乾杯した。
「ナナはどう?」
「うーん」ライカの顔が少しだけ曇る。「なかなか壁は分厚いかな」
「そっか。……じゃあ、湖にピクニックでも行く?」
「え? ピクニック? どうして、また急に? 柄にもない」
「……いや、ほら」
耳が熱くなる。
鏡を見なくてもわかる。たぶん、今の俺は顔が赤くなっているだろう。
「……子供たちが仲良くなるきっかけにはいいかなと思ってさ」
「シュラ、変わったね」
ライカがクスッと声を立てて笑う。
まるで子供の成長を心から喜ぶ母親みたいだ。
「はあ?」俺はそれが不服だった。「なにが?」
「まさか、あの元ひきこもりさんから、ピクニックに行こうなんて、アクティブな提案が出るとは思わなかったからさ」
「うるせえな。元ひきこもりさんをいじんなよ」
いじってないよ、と彼女は言うが、明らかに声は弾んでいる。
「ただ、ここに来たばかりの頃のシュラはさ、もっと暗くて、まるで自分が、この世で一番不幸です、って顔してたなあと思って」
「……きもかった?」
「うん、きもかった。めちゃくちゃきもくて、めちゃくちゃ鬱陶しかったよ」
「ひでーな」と俺は笑う。
逆にこいつは、ポップコーンを俺の口にねじ込んだあの時から、何一つ変わらない。
心も身体も、何もかも、いつまでも美しいままだ。
「俺は元々、陽気だったんだよ。変わったんじゃなくて、戻ったの」
たかが15年の短い人生だが、死にたくなるような絶望は何度もあった。
……でも、悲劇なんて、この世界ではありふれている。
「あ、そうだ。お菓子食べる?」
「お菓子? 何のお菓子?」
「チョコレート。隣のハナムラさんから、おみやげでもらったんだ。昨日まで夫婦でアルトリアに行ってたらしいよ」
「へえ、食べたい」
イズミは生まれてすぐに親に捨てられた。
ミユキは不条理な交通事故で家族を失った。
ナツの母親はヤク中のアル中の屑で、今も刑務所の中にいる。
ナナは吃音がひどく、上手く話すことができない。
そして、ライカは実の父親をその手で殺した。
世界は辛いことで満ちている。苦く、舌を刺すような現実ばかりだ。
だからこそ、人はひとかけの甘いチョコレートに、ささやかな幸せを見出すのかもしれない。
「にがっ!」思わず吐き出しそうになる。「おい、このチョコ全然甘くないぞ!」
「そりゃあ、大人のチョコレートだもん。カカオ、90%」
「……そんなのもうチョコじゃないじゃん、もはや泥じゃん」
「ふふっ。ばかめ、油断したな!」
そりゃあ油断するだろうよ。お菓子に警戒するやつなんていない。
舌に残ったカカオの容赦のない苦みを、甘いコーヒーで一気に流し込む。
マグカップの中身がちょうど空になった頃に、ライカがエプロンの紐を外しながら、悪戯っぽく小悪魔のように微笑んだ。
「シュラ。明日、お休みなんでしょ?」
「ん? そうだけど……?」
「なら、お口直しに、わたしと甘いことでもする?」
「するっ!」
俺は光の速さで立ち上がった。
そして、一切の無駄のない機敏さでタンスを開けて、一着のメイド服を引っ張り出す。
やっぱり、好きな女の子にメイド服を着せるのは、男のロマンだと思う。
「こら、アシュラ。そのメイド服は戻しなさい」




