6-4 燃える
助手席で、ブランケットにすっぽり包まるアヤメは、ぶるりと身体を震わせる。
水に濡れた髪が頬に張り付き、湿った服がぴたりと肌を締め付けている。
気温は7度と肌寒く、曇天から差し込む頼りない陽光では、川の水で芯まで冷え切った身体は中々温まりそうになかった。
「……きっと困ってますよね……車の持ち主さん」
アヤメは、セダンのハンドルを握るアトラの横顔を見つめる。
「まあ、こっちも緊急事態でしたから」
アトラは素っ気なく肩を竦めると、アクセルを踏み込み、車の速度を上げた。
列車の屋根から飛び降り、30m下の川へと落下した三人は、しばらく激流に流された後、中流付近で川岸へと這い上がった。
幸いにして、そこは自然公園の近くだった。
川釣りをする家族連れやのんびり過ごすカップルがちらほら見える。
彼らの目を盗み、荷物からタオルを拝借した。
濡れた身体をタオルで拭きながら駐車場に行き、アトラは1台のセダンに目をつける。
足元に落ちていた手頃な石を拾い上げると、ロイが、「何をする気だい?」と訊ねるよりも早く、運転席の窓ガラスを豪快に叩き割った。
ロイとアヤメがぽかんとして立ち尽くす中、アトラは平然とロックを外し、運転席に滑り込む。
ハンドル下のカバーを力任せに引き剥がすと、奥に押し込まれていた配線を引っ張り出し、火花を散らしながらそれらを直結させる。
その手つきはあまりにも鮮やかで、車のエンジンがかかるまで3分もかからなかった。
「さっさと乗れ」とアトラに促され、二人は慌てて車内に乗り込む。
後部座席には、かび臭いブランケットが転がっていた。
そして今、盗んだ車は、ランスロ領に向けてひた走っている。
アトラは時折、サイドミラーを確認する。
やはり、あの金髪の死神が追いかけてきている様子はない。
ひとまずは撒けたのだと、そっと胸を撫で下ろす。
車内にじっとりとした緊張感が漂う中、「それにしても」と後部座席に座るロイが口を開いた。
「セラフィムの彼女は、どうやってお嬢様の乗った列車を突き止めたんだろうね」
「どう考えても、身内の誰かが情報を流したんだろ」
アトラが苛立たしげに答える。
「裏切り者がいたってことかい? 一体、誰が?」
「そんなの、秘書官長しかいねえだろ」
アトラは吐き捨てるように言った。
「列車の手配をしたのは全部あいつだぞ。残った身内で、こそこそ動き回る奴なんてあいつくらいしかいないだろ。屋敷に帰って、電話の発信履歴を調べてみればいい。きっと証拠が見つかるだろうよ」
アトラは、ちらりと横目でアヤメの様子を窺う。
アヤメはきつく唇を噛み締め、流れていく窓の外の景色を眺めている。
目元に溜まった涙が零れ落ちるのを堪えるように、彼女は微かに上を向いていた。
「もし、本当にそうだとして、なぜ彼は裏切ったんだろう」
ロイの疑問に、アヤメは遠くを見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……おそらく、私が当主代理になるのが許せなかったのでしょうね。……野心家な彼のことです。父が死んだ今、きっと自分がクロム家の主導権を握りたかったのでしょう」
「器のちいせえ野郎だ」
アトラはふんと鼻を鳴らし、ハンドルを握る手に力を込める。
「……いえ。私がもっとしっかりしていれば」
アヤメはぽつりと、自分を責めるように呟いた。
車内に重たい沈黙が落ちる。
下手な慰めは、かえって彼女の心をより傷つけてしまう。
その気まずさを振り払うように、アトラはカーラジオのスイッチを入れた。
左手でハンドルを操作しながら、右手でツマミを回して周波数を合わせる。
景気のいいポップな音楽が流れることを期待していたが、スピーカーから響いてきたのは、酷く重苦しい臨時ニュースの音声だった。
これならまだ無音の方がましか。
アトラはラジオを消そうと、スイッチに手を伸ばす。
「……ちょっと待って下さい」
アヤメがアトラの手を握った。
「……この、ニュース」
横を向けば、アヤメの顔から血の気が引いている。
アトラは無言でボリュームのツマミを回し、ラジオの音量を上げた。
『――繰り返します。本日午後、クロム子爵家の邸宅で爆発火災が発生しました。現在も懸命な消火活動が続けられています。火勢は依然として衰えず、現場からは黒煙が高く立ち上っています。建物の損壊は極めて深刻で、死者多数と見られています。なお、この火災により、クロム子爵の安否については現在も確認されていません。また、クロム領内ではここ数日、相次いで放火事件が発生しており、捜査当局は今回の火災についても同一犯による犯行の可能性が高いとみて捜査を――』
ラジオの向こうのアナウンサーは、淡々と残酷な事実だけを告げていく。
もうこれ以上聞いていられないのか、アヤメは震える手でラジオを消すと、絶望から目を逸らすように両手で顔を覆った。
「引き返すぞ」
アトラの声がぽつりと車内に落ちる。
ハンドルを切って車を旋回させ、反対車線に入る。
クラッチを繋ぎ、アクセルペダルを深く踏み込む。次々にシフトを上げていく。
セダンは限界までエンジンを唸らせ、全速力でクロム領へと戻り始めた。
◇◆◇◆◇◆
山間部を抜けて、クロム領に入る。
曇天の空を置き去りにして、セダンはスピードを上げ続ける。
秋の空には、早くも夕焼けが迫ってきている。
陽のぬくもりが徐々に消えていき、三人の心持ちを表すように、あたりはどんよりと薄暗くなり始めている。
ハーツの街に入る。
遠くの空にヘリコプターが旋回しているのが見えた。
きっと報道ヘリだろう。クロム邸に近づくにつれて、多くの野次馬や消防車で道路は埋まり、黒い人だかりができている。まるで悪趣味なパレードだ。
三人はこれ以上車で進むのは難しいと判断し、適当な路地で車を停めて、外へ降りた。
天を衝くように、黒煙は未だ激しく立ち上っている。
遠巻きに囲む野次馬たちは、「もし、領主が死んでしまったら、クロム領はこれからどうなるんだ」と、一様に混乱し、口々に喚いている。
「……もう、全員死んでるだろ。こんな中で人が生きているわけがない」
群衆に紛れた、どこかの野次馬の冷酷な呟きが耳に届く。
「お嬢様!」
ロイが制止の声を上げる。
気づいた時には、アヤメは群衆を押し退けて、走り出していた。
アトラとロイは慌てて彼女の背中を追う。
「待ってくださいっ!」
ロイは必死になって叫ぶが、アヤメの耳には届かない。
制止しようとした消防隊員の手を振り払い、火の海に飛び込もうとする。
だが、間一髪のところで、全速力で駆けたアトラが、彼女に追いつき、その身体を背後からガッチリと抱き止めた。
「放してください! 放して……っ!」
アヤメはなりふり構わず暴れる。
顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らしながら、アトラの腕を何度も叩き、爪を立てて引っ掻く。
遅れて追いついたロイも、悲痛な面持ちでアヤメの肩に手を置く。
突然現れて泣き叫ぶ少女の姿に、周囲の野次馬たちが一斉にざわめき立つ。
「おい、何事だ?」「もしかして、あれアヤメ様なんじゃ?」
好奇と哀れみが入り混じった視線が、容赦なく突き刺さった。
それでもアヤメは泣き叫ぶのを止めない。
喉が嗄れ、悲鳴が掠れても、大切な人々が焼かれていく地獄の炎を見つめて叫び続ける。
そして、その時、鼓膜を震わせる爆発のような轟音が響き渡り、本邸の屋根が凄まじい火花を散らしながら崩落した。
「……あ、あぁ……っ」
アヤメの口から、引き裂かれたような悲痛な声が漏れる。
全身の力が抜け、彼女は糸の切れた人形のように膝をつき、放水のせいで泥だらけになった地面へと力なく崩れ落ちる。
ゆらゆらと燃える炎が、虚ろな瞳に残酷に映し出されていた。
「……もう、終わりです。……クロム家は、もう、終わりです」
全てを失ったアヤメは、底知れない絶望を滲ませながら呟いた。
「大丈夫」
アトラは言った。
アヤメの前に回り込み、同じように泥の中で膝をついて、華奢な身体を力強く抱きしめる。
「大丈夫。クロム家は終わらない。俺がいるだろ。俺が支える」
「……でも、シオンが――」
アトラは首を横に振った。
優しく微笑み、彼女に顔を寄せるとそっと耳元で呟いた。
「俺が、シオンになってやる。安心しろ、姉さん。全部、俺に任せろ」
「え……っ」
アヤメは涙に濡れた顔のまま、ぽかんとした表情でアトラを見つめる。
アトラはぽんぽんと彼女の背中を叩くと、ゆっくりと立ち上がった。
不安げにざわめく群衆を眺める。
領主を失い、未来を憂い、どうすればいいのかわからず、ただ立ち尽くす人々。
アトラは大きく息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「みんな! 安心しろ!」
透き通るようなその声は、騒然としていた群衆のざわめきを一瞬で黙らせ、一気にすべての注目を集めた。
「シオン・クロムはここにいるっ! 私はこうして生きている! 私が生きている限り、クロム家は決して終わらない!」
煤にまみれてもなお、貴族らしい高潔さを感じさせるその佇まい。
病弱を理由に、これまで一度も人前に姿を現さなかったクロム家の嫡男――シオン。
本物のシオンを知る者がいない群衆の中、彼のあまりに堂々とした姿を前に、偽物であることを疑う者など誰一人としていなかった。
燃え盛る邸宅を背に、群衆の視線を釘付けにしながら。
――こうして、一介の護衛に過ぎなかったアトラは、クロム子爵家の正当なる後継者『シオン・クロム』へと成り代わった




