6-2 忍び寄る影
クラトル駅に間もなく到着するとのアナウンスが流れる。
一体どこで道草を食っているのか、見回りに行ったはずのロイはまだ戻らない。
ようやく涙が止まったアトラは、左手で目元を拭って、ゆっくりと顔を上げる。
いつのまに移動してきたのか、すぐ隣にはアヤメが座っていた。
自分の両肩に彼女の手が置かれていることに気づき、自嘲気味に思わず苦笑する。
「……すいません……余計なこと思い出しちゃって。
……もう大丈夫です。情けないとこ見せてしまいました」
そう言って、アトラはいつもの仮面を被り直すように、無理に微笑んでみせる。
アヤメはゆっくりと首を横に振った。
「いえ……情けなくなんか、ありません」
その瞳はどこまでも純粋で、濁りきったアトラの過去も心も、すべてを包み込むように真っすぐに見つめらている。
その無条件の優しさが、今はただ心地よい。
だが、それと同時に、こんなにも純粋な人を裏で欺き、騙し続けていることに激しく胸が締め付けられた。
しばらくして、車輪がレールを軋ませる音が変わり、列車の速度が徐々に落ちていく。
車窓の外には、クラトル駅のプラットホームがゆっくりと広がり始める。
「……お嬢様、顔を伏せてください」
車窓の景色を凝視していたアトラが、それまでの涙の余韻を完全に消し去り、鋭い声で言った。
「え……?」
困惑したように声を漏らしたアヤメは、思わず窓の外に目を向けてしまう。
その時、視線の先にその姿を捉えた。
ホームの人混みの中に立つ、ひときわ異彩を放つ黄色いトラックジャケットを着た女。
背中にはクラブケースを背負っている。間違いなく、中には刀が入っているはず。
そして、女と目が合った。
金髪の女――エルラは、アヤメの姿を見つけた瞬間、にやりと狂気を孕んだ笑みを浮かべる。そのまま人の流れに紛れながら、三号車の乗降口から列車へと乗り込み始める。
「……あれは、セラフィムの……っ!」
アヤメの声は掠れ、恐怖のあまり身を震わせている。アトラは小さくチッと舌打ちすると、アヤメの手を握った。
「どうやら、本当に内通者がいたようですね。……逃げますよ!」
アトラはコンパートメントの扉を勢いよく開き、狭い通路へ飛び出す。
アヤメの手を引き、一刻も早くこの場を離れようとする。
だが、彼女はぴたりと足を止め、後ろ髪を引かれるように悲痛な声を上げる。
「ほかの皆にも知らせないと!」
「そんな暇はない!」
アトラは言葉を遮り、語気を強めて、厳しく叱りつけた。
「最優先すべきは、あなたの命です」
その時、通路の向こうから、ロイがのんきな足取りで歩いてきた。
「おや、どうしたんだい? そんなに血相を変えて」
その場にそぐわない、あまりにも余裕たっぷりな態度。
おまけに、よく見ればズボンのチャックが開いている。
どこぞの車両で、不埒なことでもしていたに違いない。
アトラは一瞬、苛立ちを覚えるも、ぐっと堪えて、淡々と告げる。
「セラフィムのあの女が、この列車に乗ってきた。……さっさと逃げるぞ!」
アヤメの手を引いたまま、ホームへ降りようと押し寄せる乗客たちの波をかきわける。
しかし、一歩遅かった。
四号車後方のデッキに出たところで、バタンと音を立てて、乗降口の扉が無情に閉ざされてしまう。
直後、出発を告げる汽笛が響き渡り、ガタンッと列車が再び進み始める。
完全に退路は断たれてしまった。
「ど、どうしますかっ」
パニックに陥りかけたアヤメが叫ぶ。
「とりあえず、行くぞ!」
アトラはアヤメの手を引き、仕切り扉を乱暴に押し開けて、隣の五号車へと飛び込む。
ゾクッ、と背筋を凍らせるような、あの最凶の殺気が背後から爆発的に膨れ上がる。
間違いない。
あの女はもう、すぐそこまで迫ってきている。
アトラの手を握るアヤメの指先に、恐怖で凄まじい力がこもる。
三人は後方車両に向かって、通路を駆け抜ける。
「最後尾の貨物車から、屋根に上がれるよ」
並走するロイが言う。
「屋根に上がってどうすんだよ」
アトラは走りながら、苛立たしげに顔を顰めた。
「決まっているじゃないか、飛び降りるんだよ」
「はあ? ……まじで言ってんの?」
「もちろんさ。僕は真の魔術師だよ。風の魔術を使えば、多少は落下の衝撃を軽減できるはずさ」
「三人同時でもか?」
「……三人はやったことないけど、まあなんとかなるよ」
根拠もクソもない、あまりにも無責任な言葉。
しかし、今はそれに賭けるしかない。
「わかった。それで行こう」とアトラは歯を食いしばる。
五号車の狭い通路を突っ切り、次の車両へと続く仕切り扉へ手をかけた、その時。
背後で、四号車から繋がる仕切り扉が勢いよく撥ね開けられた。
「――みーつけた」
振り返る。
狭い通路の向こう側に、満面の笑みを浮かべる金髪の女が立っている。
エルラは手にしたクラブケースのジッパーを引き下ろし、中から刀を取り出した。
「いけいけっ! 追いつかれるぞ!」
アトラの大声が車内に響き渡る。
三人は仕切り扉を勢いよく開け放ち、六号車へと飛び込んだ。
客たちの驚愕の悲鳴が上がり、「走るな、止まりなさい!」と血相を変えた車掌の制止の声も聞こえる。
だが、そんなことを気にしている余裕など微塵もない。
逃げろっ! 急げっ! と、ただひたすらに、背後から迫り来る、死神の足音から逃れるようにして、六号車、七号車を死に物狂いで走り抜ける。
そして三人は、ついに最後尾の八号車へと滑り込んだ。
アトラはすかさず重い仕切り扉を閉め、鍵をかける。
傍にあった棚を乱暴にいくつもなぎ倒し、扉の前にバリケードとして築き上げる。これで少しは時間が稼げるはずだ。
前方を向く。
薄暗い貨物室の奥に、天井のハッチへと繋がる鉄製の梯子が見えた。
「ロイ! 先に上って、お嬢様を引き上げろ!」
「了解!」
ロイはすぐさま梯子を上り、頭上にある重い鉄扉を押し上げる。
ロイが屋根の上に身体を滑り込ませたのを確認すると、「次は、お嬢様の番です!」とアトラは叫んだ。
アヤメの身体を抱き上げるようにして梯子へ押し上げた。
アヤメは必死に足をかけ、頭上から伸ばされたロイの手を掴む。
そのまま一気に屋根の上へと引き上げられていく。
その瞬間、――ドンッ! と背後の仕切り扉が、人間業とは思えない凄まじい力で蹴りつけられた。
「クソッ! やばい……やばい……っ」
焦りで額に汗が滲む。
その後も息を呑む暇なく、ドン、ドン、ドンッ! と何度も扉が蹴りつけられる。
金属が歪む破壊音は、扉が蹴りつけられるたびに激しさを増していく。
「アトラくんも早く!」
頭上のハッチから、アヤメが必死の形相で限界まで手を伸ばしている。
アトラは梯子を猛スピードで駆け上がり、上から伸ばされたアヤメとロイの手を強く掴み取った。
二人の力を借りて、ハッチの外へと上がる。
――ズガァァァァンッ‼
アトラが這い上がったとほぼ同時に、下から凄まじい衝撃音が炸裂した。
仕切り扉が完全に蹴破られ、積み上げたバリケードごと吹き飛ばされたのだ。
アトラは額の汗を拭い、天井の重い鉄扉を、踏みつけるようにしてバタンと力任せに閉めた。
這い上がった屋根の上は、まるで嵐の真っ只中にいるかのようだった。
叩きつけられる風圧は凄まじく、ゴォォォッ――という風の咆哮が耳を劈く。
田舎の景色は猛烈な速度で後ろへと押し流されていく。
身を隠せる遮蔽物などどこにもなかった。
「走るぞ! あの女が上がってくる前に!」
三人は強烈な風圧に抗いながら、鉄の屋根を蹴って、前方車両へと飛び移る。
一両、また一両と、走る列車の連結部を飛び越えていく。
しかし、そんな時、突風がアヤメの身体を容赦なく煽った。
「きゃっ……!」
アヤメの足がもつれ、バランスを崩して滑りかける。
「お嬢様っ!」
咄嗟にアトラが彼女の腕を強く掴み取った。
強引に引き寄せ、そのまま壊れ物を守るように彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「……ありがとうございます」
「……いえ」
一歩足を踏み外せば、確実な死が待っている。
だが、立ち止まっている暇などない。
背後で、――ガシャァン! と不穏な音が聞こえた。
振り返ると、先ほど閉めたハッチが勢いよく撥ね開けられ、そこからエルラが顔を出す。
そして、地獄から這い上がるようにして、彼女は軽々と屋根に上がってくる。
「もう、逃がさない!」
エルラは手にした刀を鞘から抜き放つと、猛烈な風圧を物ともせず、信じられない速度で屋根の上を真っすぐに走ってきた。
「……なんだよ、あいつ」
アトラは顔を引き攣らせながら言う。
満面の笑みを浮かべる彼女の表情は、まるで無邪気な子供が鬼ごっこをして遊んでいるようにしか見えなかった。
「アトラ! 前!」
ロイが突然、風に負けない大声を張り上げる。
アトラは反射的に、前を向く。
行く手には、岩壁のトンネルがもの凄い速度で迫ってきていた。
もうすぐそばだ。
このまま立っていれば、トンネルの入り口に激突して肉体は木っ端みじんに粉砕される。
後ろからは笑顔の死神、前からは死の壁。
「伏せろっ!」
アトラは叫ぶと、自分の身体を盾にするようにしてアヤメの上に覆い被さり、屋根の上へと伏せた。
直後、鼓膜を破らんばかりの破壊的な汽笛の音が爆発した。
列車は猛烈な速度を維持したまま、トンネルへと突入する。
岩肌の天井まで、頭上僅か数センチ。少しでも頭を上げれば一瞬で首が吹き飛ぶ。
アトラはただひたすらに腕の中のアヤメを強く抱きしめる。
アヤメもまた、恐怖に震えながらアトラの身体に必死に縋りついていた。
「アトラっ! このトンネルを抜ければ、川があるよっ!」
同じように頭を低くして、這いつくばっているロイが轟音に負けじと叫んだ。
「わかった! 合図を頼む!」
「ああ、任せてくれ!」
ロイは頷き、必死に手を伸ばす。
アトラはその手をガチリと力強く握り締めた。
「お嬢様も、いいですねっ⁉」
「はいっ! アトラくんと一緒なら!」
真っ黒な視界の先に、段々と光が戻ってくる。
もうすぐ出口だ。
そして、列車はトンネルを勢いよく突き抜けた。
パッと視界が開け、眼下に広大な川が見える。
三人は激しい風を浴びながら、ゆっくりと立ち上がる。
列車はすでに、川の上に架かる巨大な鉄橋へと進入している。
「……逃がすかよっ!」
振り返れば、エルラが一両後ろ、すぐ目の前の連結部まで迫ってきている。
「いまだっ!」
ロイの鋭い合図と同時に、がっちりと手を握り合った三人は鉄の屋根を蹴りつけ、飛んだ。
身体が一瞬、宙に浮く。
落ちる先は、遥か30m下を流れる川。
「風よ護れ――!」
空中を落下しながら、ロイが魔術を唱える。
その刹那、暖かな風が三人を包み込む。
落下の凶暴な風圧が和らいだのも束の間、次の瞬間には、激しい水飛沫が上がり、三人の身体は冷たい水の中へと深く深く沈んでいった。




