6-1 ララバイ列車で過去のことを思い出す
ララバイ急行列車は、もう間もなくハーツ駅を出発しようとしていた。
目的地であるランスロ領の『バン駅』への到着予定時刻は、17時ちょうど。
全八両編成の列車は、一等級・二等級・三等級の車両に分かれている。
貴族向けの一等客室は、四号車と五号車に設けられた、広々とした四人掛けのコンパートメント(個室)仕様だった。
急な手配だったため、レントが慌ただしく電話をかけて何とか確保できた一等客室は、四号車の一室だけだった。
今回アヤメに同行するのは、秘書官長レント、執事長パーカー、そして護衛のロイとアトラの四名。
その一等客室には、アヤメと、護衛であるアトラとロイが入ることになり、残るレントとパーカーは、若者たちにあっさりと席を譲ると、すぐ前方にある三号車の二等客室へと移動した。
「僕は、念のため、車内に危険がないか見てくるよ」
出発を前にして、ロイが立ち上がる。
「ナンパするつもりじゃないだろうな」
アトラが胡乱げな目を向けると、ロイは心外だとばかりに大袈裟に肩を竦める。
「失礼な。僕は真の騎士だよ。職務中にナンパなんてするわけがない」
「本当かよ」
「まあ……僕は真の紳士でもあるからね。女性からお誘いがあれば、無下にはできない」
そんな調子のいい台詞を言い残すと、ロイはひらひらと手を振り、コンパートメントの扉を開けて出て行った。
「「……はあ、まったく」」
アトラとアヤメのため息が綺麗に重なる。
二人は思わず顔を見合わせて苦笑した。
アトラは腕時計に目を落とす。時刻は13時4分。
出発を告げる汽笛が響き渡り、列車が滑らかに動き出す。
「――ボンッ」
ゆっくりと流れ始める車窓の景色を眺めながら、アトラはアヤメには聞こえないほど小さな声で呟いた。
ここからでは、クロム邸は見えない。
もちろん、凄まじい爆発音が届くはずもない。
だがそれでも、残してきた使用人や、私兵たちの今の姿は、鮮明に脳裏へと浮かび上がってくる。
今頃、クロム邸は激しい炎に包まれて、ポップコーンを口にしたシオンや何も知らない同僚たちは、文字通りポンッと内側から弾け飛んでいることだろう。
シオンに対する罪悪感など、微塵もない。
あいつは死んで当然の、救いようのない人間だった。
だが、巻き込んでしまった同僚たちは違う。
彼らは、自分の計画の犠牲になったに過ぎない。
ちくりと罪悪感が胸を突き刺す。心に、また一つ、修復不可能な罅が入る。
――お前は、あの日の誓いを忘れたのか。
名前を捨て、過去を捨て、右腕を斬り落としたあの日。
お前は、すべての罪を背負う覚悟を決めたはずではなかったのか。
アトラは自らを戒めるように、右腕の義手を、軋むほどの力で強く押さえつけた。
熱のない金属の腕では痛みを感じることはできない。
だが、それ故に、鼓動する心臓がますます痛んだ。
これなら、いっそのこと、心までサイボーグにすればよかったのかもしれない。
「……アトラくん、どうかしました?」
不意に声をかけられ、アトラははっと我に返る。
顔を上げれば、対面に座るアヤメが、心配するようにこちらを覗き込んでいる。
「いや、なんでも」
アトラはすぐに笑ってみせた。
列車は逃げるようにスピードを上げ、田舎の風景の中を突き進んでいく。
「このまま、何事もなくランスロ領まで行ければいいんですけどね……」
車窓に目を向けながら、アヤメが祈るように呟いた。
「きっと大丈夫ですよ」
アトラは安心させるように言う。
「目立つ飛行機ではなく、わざわざ足がつきにくい列車を選んだんです。駅に怪しい連中が張り込んでいる様子もなかったですし、クロム家に内通者でもいない限り、お嬢様がこの列車に乗っていることまでは、いくらセラフィムでも掴めないはずですよ」
「……内通者」
そう呟いたアヤメの顔に、ふと影が差す。
その不穏な表情の変化を見て、アトラは首を傾げる。
「何か、心当たりでも?」
「……いえ……その、レントなんですけど」
「秘書官長が、どうかしましたか?」
「い、いえ」
アヤメは我に返ったように、慌てて首を横に振った。
「やっぱり、何でもありません。……私の考えすぎでしょうから」
そう言って無理に微笑むアヤメを、アトラは何も言わずに見つめる。
無理もない。
可哀想だとも思う。
信頼していた警備隊長グラントが犯人だと知らされたことは、彼女の心に深い傷を残したはずだ。
そして、その傷口は未だ乾くことなく、レントへの新たな疑念によってさらに激しく疼いている。
これ以上、誰かに裏切られ、傷つけられることが何より恐ろしいのだろう。
重々しい汽笛が鳴り、車窓の外の景色が一瞬で闇に包まれる。
列車がトンネルへと入ったのだ。暗転した個室の中で、アヤメがぽつりと問いかけてくる。
「……アトラくんって、兄弟はいますか?」
「兄弟、ですか? なんで急にまた?」
すぐに列車はトンネルを抜け、車内には再び柔らかな陽光が戻ってくる。
「いえ……」
アヤメは気恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。
僅かに耳を赤く染めている。
「……よくよく考えてみれば、こうしてアトラくんと二人きりでゆっくり話すのは、初めてだなあと思いまして。……だから、まずは家族構成から、と」
「なるほど」
アトラはクスッと小さく笑うと、
「兄弟は、上に兄が二人いましたよ。まあ、あまり話した記憶はありませんけど」
と正直に答えた。
「そ、そうだったんですね……ご、ごめんなさい」
アヤメは申し訳なさそうに眉を下げる。
だが、アトラにとって、兄のことなど本当にどうでもよかった。
カミノ戦争で戦死した第一王子と第二王子の顔など、遥か昔に亡くなった母上の顔以上に思い出せないのだから。
「べつにいいっすよ」
アトラはわざとトーンを上げ、明るい声で続ける。
「正直、本当の家族の思い出はあまりないんです。俺、孤児院で育ったんで」
「孤児院、ですか?」
「ええ。片田舎にある小さな孤児院です。自分を含めても、子供は六人しかいませんでした。高齢だった院長が死んでからは、最年長だった俺と、ライカって女の子と二人で、下のチビたちの面倒を見ていました」
「ああ、だからですね」
アヤメは深く納得したように何度も頷く。
「何がです?」
「だからアトラくんは、そんなにしっかりされているんですね。どこか年上に見える理由が、ようやくわかりました」
「まあ、同年代の奴らよりは、少しは大人びているかもしれませんね」
「孤児院の子供たちは、どんな子たちだったんですか?」
「そう、ですね……」
走馬灯のように、大切な、とても大切な記憶が次々と蘇る。
「……そう、ですね……」
続く言葉が、どうしても喉の奥に閊えて出てこない。
喜怒哀楽という単純な言葉では到底収まりきらない、あまりにも膨大な感情が、泥流のように綯い交ぜになって押し寄せてくる。
胸が締め付けられ、息の仕方を忘れるほどに苦しい。
鼻の奥がつんと痛むほど熱くなっていく。
「……アトラくん?」
アヤメの声が、遠く聞こえる。
「えーっと……そう、ですね」
アトラはたまらず、震える手で目元を覆った。
決壊した感情とともに溢れ出そうになる嗚咽を、必死に噛み殺す。
だが、一度溢れた記憶は止まらない。
目を瞑れば、瞼の裏には、今でもあいつらの顔がありありと映る。
「パパ!」と大声を上げて、二つ結びの少女が、胸に飛び込んでくる。
それを両手でしっかりと受け止めては、いつものように、「パパって呼ぶなっての」と呆れながらも、ぎゅっと抱きしめてやる。
くすぐったそうに少女は笑う。
眼鏡をかけた大人びた少年は、相変わらず部屋の隅っこで分厚い本を読んでいる。
目が合うと、本を閉じて立ち上がり、「……シュラ兄、これ読んで」と恥ずかしそうに近づいてくる。
いつも一緒に本を読む時は、自然と膝の上に座ってきた。そこが少年の特等席だった。
声の大きな、やんちゃな少年は、今日は誰に泣かされたのか、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしている。
「……兄ちゃん」と情けない声を上げるので、「もう泣くな」と笑いながら、しゃがんでその顔を拭いてやる。
少年の前では、いつも大人っぽく振る舞うことができた。
そして、黒髪美人の女の子は、エプロン姿で厨房に立っている。
肩まである美しい黒髪、大好きな彼女の後ろ姿。胸の中で好きが溢れて、思わず背後から、その身体をそっと抱きしめる。
彼女は平常心を装いながら、「もー、料理中なんだけど……」と呆れたような声を出す。
「シュラ。大人しくしてなさい。大好きな甘い卵焼き作ってあげるから」
その声には、優しさと愛おしさがこれでもかと溢れていた。
そんな何気ない、ありふれた日常。何よりも大切な思い出。
――それなのに……なぜ。
「……ナナ、お前が……あいつらを、殺したのか?」
「そうだよ」とナナは頷いた。
「それが私の仕事だから。……仕事だから、何とも思わなかった」
どもりのない流暢なグラキエ語だった。
「……そう、かよ」
気づけば、生まれて初めて、『世界の権能』を発動させていた。
右手の甲に刻まれた、月桂冠の刻印が淡く光っている。
ナナは血だらけになって倒れている。
我に返ったアトラは、急いで血の海の中に膝をつき、彼女の身体を抱きしめた。
「……仕事なんじゃなかったのかよ。……なんで、お前は、泣いてんだよ」
震える指先で、ナナの目から流れる涙を拭う。
けれど、涙はいつまでも、とめどなく溢れて、アトラの手を濡らしていく。
「……ご、めん、なさい」
グラキエの工作員として送り込まれ、あいつらの命を奪った冷酷な少女。
しかし、その身体は小さくて、傷だらけで、あまりにも儚い。
もう、彼女の瞳の焦点は合っていない。
アトラは返り血で真っ赤に染まりながら、小さく、あまりにも小さなナナの身体をきつく抱きしめ続けた。
「……あった、かい……」
今にも消えてしまいそうな、弱々しく掠れた声。
ナナは縋りつくように抱きしめ返してくる。
「……本当は、すっごく、うれしかった、です。……かぞくの、一員になれて、すごく、うれしかった、です。……湖、きれいだったなあ。……あんな、星空、生まれて、初めて見た、よ。……ああ、綺麗だった、なあ。……幸せだった、なあ。……ねえ、アシュラお兄ちゃん」
「……ん?」
「……ありが、とう。……本当は、大好きだったよ。……わたしね、うそついて、たの。……本当は、うれしくて、幸せだった、んだ。……家族が、できて、とっても、とっても、幸せだったんだ。……だから、ね――」
「……ナナ?」
呼びかけても、もうナナは動かない。
「――ナナァァああああッ‼」
喉が裂けるほど、叫び続ける。
――あの日、あの時。生まれて初めて、人を殺した。




