5-2 シオン
正午を告げる鐘が鳴り、ようやく会議が終わった。
――しかし、これからが忙しい。
急ぎランスロ公爵へ、電話でアポイントメントを取ったところ、「今夜の晩餐なら空いている」という返事をもらった。
クロム領からランスロ領までは、列車で片道四時間。
出発まで残された猶予はわずか。
今回、アヤメの同行者は、レント、パーカー、ロイ、アトラの四名のみ。
注目を避けるため、私兵は連れず、少数精鋭で向かうことになった。
アヤメとパーカーは机を並べて、山積みの必要書類の精査と、委任状の作成に没頭している。
自室で受話器を握るレントは、各所へ矢継ぎ早に電話をかけ、移動に必要な列車の手配に奔走している。
ロイもまた、私兵たちに邸宅警備の指示を出しながら、不測の事態に備えた武装の確認に追われていた。
そんな慌ただしさの中、アトラはポップコーンを片手に邸内を歩き回っていた。
アヤメたちのランスロ領への急な出発に、邸宅に残される者たちの間には不安と緊張が走っている。
クロム家は、自分たちは、これからどうなるのだろうか、と。
アトラは、使用人や私兵たち一人ひとりに、「安心してくれ。今抱いている不安もすぐに消えるから」と声をかけては、ポップコーンを配り歩く。
その調子のよさに呆れる者もいたが、不思議と誰もが肩の力を抜き、手渡されたポップコーンを頬張っていた。
しかし、そこで運悪く、シオンと鉢合わせてしまう。
「おい、貴様、何をしている」
アトラは出かかったため息を噛み殺して、一瞬で完璧な笑顔を作ってみせた。
「ポップコーンを配ってるんです。シオン様も一つ、いかがです?」
アトラが親しみやすく差し出した紙袋を、シオンは軽蔑の目で一瞥した。
「誰が、そんな家畜の餌食べるかよ!」
罵声とともに、シオンは太い腕を乱暴に振り払う。
アトラの手から弾き飛ばされた袋は破れて、ポップコーンが床一面に飛び散った。
「あーあ、何するんすか。せっかくの力作を」
「うるさい! こんなもので、床を汚すな!」
「おっと危ない」
シオンがポップコーンを足で踏みつけようとしたところで、アトラは咄嗟にしゃがみ込み、床に散らばったポップコーンを掻き集める。
「そのまま豚のように這いつくばって、全部残さず食えよ」
……豚はお前だろうが。
喉まで出かかった言葉を何とか呑み込み、アトラは顔を上げると、「嫌です」と笑顔で答えた。
「は? 何を断っている! これは当主命令だぞ! さっさと食えよ!」
「まあまあ、落ち着いて」
アトラは作り笑顔を浮かべたまま立ち上がる。
「クソデブなんだから、そんなに興奮したら憤死しますよ」
そう言って、シオンの腹の肉を容赦なく鷲掴みして、ぶるんぶるんと乱暴に揺さぶってみせた。
「は……?」
貴族に対するものとは到底思えない、あまりにも恐れ知らずで侮辱的な行動に、シオンは一瞬だけ唖然と固まる。
「――な、何するんだ! 無礼者! 離せッ!」
すぐに我に返ると、血気を猛らせ、アトラを力の限り突き飛ばす。
ふらふらと大袈裟によろけてみせるアトラ。
シオンは、これでもかと顔を赤くし、肩を上下させ怒りに震えている。
「な、舐めるなよ、お前……! 殺す! 殺してやる!」
「やってみろよ」
アトラが挑発的にくいくいと指を振って煽ってみせると、シオンは、「ふざけんな!」と理性を失った猪のように突っ込んできた。
あまりにも鈍い動きだった。
アトラは半身を引いて軽く避けると、すれ違いざまに足を引っかける。
「うわっとぉ!」
あははっ、とアトラは無様に転ぶシオンを嘲笑いながら、脂ぎった髪の毛を掴み、拾い集めたポップコーンの塊を、無理やり分厚い口の中へと突っ込んだ。
「……ごほっ、けほっ」
むせ返り、涙目になりながらも、シオンはポップコーンを呑みこんでしまう。
「どうだ、美味いか? それとも人間の食べ物は、豚の口には合わなかったか?」
「……殺す」
シオンは重い身体を這いずるようにして、憎悪に塗られた目をしてゆっくりと立ち上がった。
「お前なんか、クビだ!」
「ハッ。てめえに、俺をクビにする権限なんかねえよ。バーカ」
アトラは中指を立てる。
「ふざけるな!」
ただでさえ真っ赤に染まっているシオンの顔が、怒張した血管で今にも破裂しそうなほどに変色した。
「僕は、次期当主だぞ! 偉いんだ!」
「何が次期当主だよ。引きこもり野郎。領民は誰もお前の顔を知らねえぞ」
「う、うるさい! しょうがないだろ! 僕は病気なんだぞ!」
「はいはい、そうだね。しょうがないね」
アトラは馬鹿にするように棒読みで言う。
シオンは、「雑魚が、舐めるなよ!」と鼓膜を破らんばかりの大声を出すと、懲りもせず再び突進してくる。
だが、今度は避けなかった。
アトラはあえて抵抗せずに、背中から倒れ、床に仰向けになる。
「死ね! 殺す! 殺してやる!」
勝利を確信したシオンが、そのまま馬乗りになり、のしかかってくる。
アトラは咄嗟に顔面を両手でガードするが、シオンは狂ったように拳を振り上げ、その上から何度も殴りつけた。
「どうだ! 思い知ったか! 僕は強いんだぞ!」
シオンは興奮しながら、執拗に殴り続ける。
「僕は貴族だ! 生まれながらの勝ち組だ! お前みたいな底辺とは違う!」
その時、廊下の先から、こちらへと激しく駆けてくる足音が響いた。
「何してるんですか! シオン! アトラくんから離れなさい!」
現れたアヤメは、駆けた勢いのまま、アトラの上に馬乗りになっているシオンの巨体を力任せに突き飛ばす。
「痛いっ! 頭打った! 姉さんが僕に暴力を振るった! 僕、病気なのに!」
床にごろりと転がり、打った頭を押さえつけながらシオンが喚く。
しかし、アヤメはその見え透いた演技には目もくれず、すぐさま床に倒れるアトラの傍へと膝をついた。
「大丈夫ですか、アトラくん!」
「ええ、何とか」
アトラは、アヤメの手を借りながらゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。
「姉さん……っ!」
床から、その二人の光景を見上げ、嫉妬と怒りでシオンがじたばたと暴れ出した。
「何で、こいつの味方をするんだよ! 姉さんは、僕の姉さんだろ! 何で僕の味方をしないんだ! 何でそんな奴に手を貸すんだ! 姉さんは僕の味方をしなきゃだめだろ! おい! 聞いてんのかよ! 姉さん!」
「……もう、沢山です」
ぽつりと、アヤメの口から乾いた声が零れ落ちた。
その目に宿るのは、軽蔑の色。
「は? なんだって?」
シオンが聞き返した瞬間、アヤメの中で張り詰めた糸がぷつりと切れてしまった。
「もう沢山だと言ったんです! 貴方なんか――」
本心を叫び出そうとしたその刹那、アトラが彼女の口を手で塞いだ。
困惑の表情を浮かべて目を見開くアヤメに、にこっとアトラは悪戯っぽく笑って見せる。
そして、彼女の口から手を離すと、左手首にはめていた腕時計を外し、左の拳に巻きつけた。
まだ床で喚いているシオンへと迷いのない足取りで近づく。
「な、なんだよ!」
「ブーブー喚くな。次期当主の前に、てめえは弟失格だ。寝てろ」
アトラはそう吐き捨てると、シオンの分厚い首に腕時計を押し当てた。
バチバチッ、と激しい放電音が響き、シオンの巨体がびくんと跳ねる。
それきりシオンは床に伏せ、ぴくりとも動かなくなった。
「この腕時計、スタンガンにもなるんですよ」
アトラは何事もなかったように、腕時計を手首に嵌め直しながら言う。
「安心してください。気絶しただけです。すぐに目を覚まします」
アヤメは床に転がる弟と、目の前の青年の姿を交互に見つめ、それから潤んだ瞳で、アトラを見上げた。
「……なぜ、止めたんですか?」
「さあ。なぜでしょう」
アトラは、肩を震わせているアヤメのすぐ近くまで歩み寄る。
「お嬢様が、何を口にしようとしていたのかは、わかりません。だけど……もし、それを口にしていたら、あなたはすぐに後悔することになったはず」
「……どういう意味、ですか?」
「あなたに、汚い言葉は似合わない」
ぶっきらぼうに言って、アトラは目の前の小さな身体を包み込むように抱きしめた。
「抱きしめられるのは久しぶりでしょう?」
「……はい」
アトラの胸に顔を埋めているせいで、アヤメの声はくぐもっている。
「……誰かに抱きしめられると、こんなにも安心できるんですね」
張り詰めていた緊張が解けたからか、アヤメの目から涙がぽろぽろと溢れ出した。
「……アトラくんが、本当の弟ならよかったのに」
「俺もそう思います」
アトラは、アヤメの頬を伝う涙を指先で拭う。
彼女がそっと顔を上げると、頭に手を置き、よしよしと宥めるように優しく撫でた。
「安心してください。すぐにあなたの思い通りになる。その時が来れば、きっと誰にも縛られないから。だから、何も心配しなくていいよ」
「……年下のくせに、生意気です」
アヤメは涙で濡れた顔を少しだけ綻ばせ、拗ねたようにそう呟いた。




