5-1 猫に小判、豚に真珠、貴族に権力、ギャングに暴力。 ――価値が分からない者に貴重なものを与えても無駄である
「……カミノの第三王子? アシュラ? 何のことを言っている?」
首筋に剣を突きつけられてもなお、アトラの顔には汗一つ滲んでいなかった。
「その豪胆さは尊敬に値しますが、今さらとぼけないでいただきたい。アシュラ王子」
「本当に、何を言っているんだ」
アトラはなおも困惑した表情を崩さない。
「意味がわからん。俺はアトラだ。――それに、カミノの王族は全員死んだはずだ」
「ええ、記録上ではそうです」
ロイはあっさりと首を縦に振った。
「各国の首脳たちも皆、そう思い込んでいる。カミノ王族は一人残らず、悲惨な死を遂げた、と。特に、今まで存在を隠匿されてきた第三王子に至っては、右腕一本しか残されていなかった。――ですが、それは事実ではない。カミノ王族の血は途絶えてはいない」
ロイの目が、アトラの右腕の義手に向いた。
「貴方は、自らの右腕を切り落とし、無数の死体の中にそれを紛れ込ませて、自身の死を偽装した。そうでしょう?」
「……馬鹿馬鹿しい」
アトラは鼻で笑い、冷たく吐き捨てた。
「とんだ妄想だ」
「では、質問を変えましょう」
ロイははにかみ、親しげに甘い声を響かせる。
「――サイハテ村のライカさんは元気かい?」
その名を口にした瞬間、空気が凍りついた。
アトラの表情から、一切の感情が消え失せる。
首元に突きつけられていた剣を義手で掴み取り、同時に左手を伸ばして、ロイの喉元を絞め上げ始めた。
「……貴様如きが、軽々しく、ライカの名を口にするな」
全身が総毛立つような威圧感。
本能が、逆らってはいけない存在だと否応なく理解させられる。
そこにいたのは、いつもの飄々としたアトラではない。
――生まれながらにして、人々の頂に立つことを宿命づけられた、絶対者だった。
「ははっ……やはり、貴方が……ミセラの王なのですね」
ロイの両足がぶらぶらと地面から浮く。
その手から、するりと剣が滑り落ちた。
じわじわと顔面が鬱血し、次第に真っ赤に染まっていく。眼球が飛び出しそうなほど、目が大きく見開かれている。口からは涎が垂れている。
「……なぜ、笑っている?」
アトラは無感情にそう問いかける。
首の骨がへし折れそうなほど強く絞め上げているというのに、ロイの唇は歓喜に歪んだ笑みを刻んでいた。
「そ、それは、ぼくが、あ、あなた様の、敵ではないからです。ぼ、ぼくは……あ、あなた様の味方です。……ず、ずっと、あ、あなた様を……さ、探して、おりました」
アトラは怪訝に片眉を吊り上げながら、ぱっとロイの首から手を離した。
支えを失ったロイは地面に倒れ伏せ、「ごほっ、ごほっ」と何度もむせ返る。
赤黒い跡が残った首を押さえながら、貪るように空気を吸い込む。
「……俺を探していたとは、どういう意味だ?」
アトラは冷徹な眼差しでロイを見下ろしたまま、低く問いかける。
ロイは必死になって息を整えると、忠誠を示すように跪き、頭を垂れた。
「僕は、今世の『王の選定者』です」
「……お前、魔女の末裔だったのか」
「はい。僕の役目は、貴方様が『ミセラの冠』を戴くに相応しいかを見極め、ミセラの王へと導くこと」
ロイは顔を上げ、恍惚とした笑みを浮かべる。
「――それが、僕の生まれた意味です」
「そうか」
アトラはふっと穏やかに笑うと、義手の指で銃の形を作り、ロイの顔に向けた。
「残念だが、俺に王の選定者など必要ない。この右腕を見てみろ。この通り、ミセラの冠は既に捨てた」
そう言って一歩踏み出し、跪くロイの額に人差し指を突きつける。
中指を弾き、頭を吹き飛ばそうとした、その時。
「……お待ちください」
ロイは静かに声を上げた。
「なんだ、命乞いか?」
「そんなつもりはありません」
ロイは淀みなく言い切る。
「貴方様が死ぬことを望まれるなら、僕は喜んで死にましょう。首を掻き切れとご命令なさるなら、今すぐにでも、この首を差し出しましょう。それが僕の役目ですから」
「じゃあ、なんだ?」
「この命、貴方様の覇道のためにお使いください」
ロイは、自らの額に突きつけられた人差し指を、包み込むように両手でそっと握った。
「確かに、貴方様は、月桂冠の刻印が刻まれた右腕を切り落とし、『世界の権能』を自ら手放した。ですがそれでも、貴方様が、『はじまりの神』に選ばれたという事実は、決して変わらない。
――王冠を戴く者が王なのではありません。選ばれし者が、王なのです」
ロイは僅かに腰を浮かせ、アトラの義手の甲へそっと唇を落とした。
「真の騎士として、貴方様に永遠の忠誠を誓います」
顔を上げて、真っすぐにアトラを見つめる。
その瞳には、一片の揺らぎもない。
「……立て」
アトラは静かに言って、ポケットの中に手を突っ込む。
ロイが地面に拳をついて立ち上がると、アトラはポケットから取り出したポップコーンを差し出した。
「食え」
ロイは躊躇いなく、ポップコーンを口に入れる。
「いいだろう。認めてやるよ」
アトラは、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「だが、これだけは言っておく。俺は裏切りを絶対に許さない」
「もちろんです」
ロイは騎士らしく、大仰に頭を下げた。
「敬語はもういい。仰々しい態度もなしだ。それと、俺のことを二度と、アシュラと呼ぶな」
「承知したよ、アトラ」
「よし」
アトラは満足げに頷く。
「なら、さっそく仕事の話をしようか」
◇◆◇◆◇
ロジャーの葬儀から、3日が経過した。
クロム家の人々は、まだ喪に服している。
葬儀は、子爵の格にはおよそ不釣り合いなほど小規模なもので、参列者もクロム家の血縁者と、ごく一部の関係者のみに限られた。
領内の混乱を避けるため、ロジャーの死は未だ領民には公表されていない。
無論、その犯人が警備隊長であることも伏せられていた。
――そして今。
邸宅の会議室では、クロム家の今後を左右する重要な話し合いが行われていた。
「シオン様が王立学院を卒業されるまでの間、アヤメ様を当主代理に立てる。
現状、これしかないでしょう」
秘書官長であるレントが言った。
「代理、ですか?」
アトラは首を傾げる。
「当主じゃなくて?」
「はい。アヤメ様は、ロジャー様の方針により、王立学院に通われていません。――アルトリア貴族の慣例において、王立学院の卒業は、正式な当主として認められるための絶対条件なのです」
アヤメは静かに目を伏せて、小さくため息を漏らした。
「……いなくなってまで、こうして私を縛りつけ、迷惑をかけられるとは」
喫緊の問題を話し合うため、急遽集まった面々。
会議用の長机には、アヤメ、レント、パーカーが座り、向かい側には、ロイ、アトラが席についている。
当主が座るべき上座は、ぽっかりと空席のまま。
この席が真に埋まる日は、どうあっても当分先になりそうだった。
「その当主代理ってのは、そんな簡単に立てられるんすか?」
アトラが訊ねる。
「いえ。決して容易ではありません。公爵、あるいは王家直々の承認が必要となります」
重々しく補足したのは、執事長のパーカーだった。
「……派閥長であるランスロ公爵閣下のもとへ、直談判に赴くほかないでしょうね」
そう口にしたアヤメの顔には、既に隠し切れない疲労が滲んでいた。
「よろしいでしょうか」
ここまで議論を静観していたロイが、背筋を伸ばしたままそっと手を挙げ、発言の許可を求める。
「もちろんです、ロイさん」
「お嬢様。今、貴方がクロム領を離れるのは、あまりにも危険かと思います」
「危険……やはり、ガチャ伯爵家のことでしょうか?」
「はい。ここ最近、ますますガチャ伯爵の手の者とおぼしき連中が、領内での不穏な動きを見せており、挑発行為も増えています」
ロイは一度言葉を切り、険しい顔つきになって続ける。
「特に放火については、ロジャー様の葬儀から、まだ三日しか経っていないというのに、すでに十二件も起きています」
「……十二件も、ですか?」アヤメは息を呑み、口に手を当てる。
「ええ。これらはすべて同じ手口です。あからさまな挑発と見て間違いないでしょう」
ロイはそう言って、残念ですがと首を横に振った。
「関係者に緘口令を敷いているとはいえ、人の口に戸は立てられぬもの。ガチャ伯爵は、すでにロジャー様の死を掴んでいるとみて、動くべきです」
「そうだよな」と頷くアトラは、背もたれに寄りかかりながら、頭の後ろで手を組む。
「ダイヤ鉱山を乗っ取ろうと、長年虎視眈々と狙っていた男が、当主不在という絶好の機会を逃すはずがねえわな。十中八九、当主代理を立てさせまいと、乱暴な手段で妨害してくるだろうよ」
ははっ、とアトラの乾いた笑い声だけが虚しく響く。
その後、会議室には重苦しい沈黙が降りた。
一体、どうすべきなのか。
当主代理の承認を得るためには、申請者であるアヤメ本人が赴くのが絶対のルール。代役は利かない。
重い沈黙の中、いつのまにか全員の視線が、自然とアヤメに集まっていた。
「……確かに、私がクロム領から出るのは、とても危険かもしれません。――ですが」
ぽつりと呟いたアヤメは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの迷いは消え去り、確固たる光が宿っている。
「このまま当主不在の状況が続けば、クロム領はすぐに立ち行かなくなります。
――私は貴族として、領民を守る義務がある。ここは絶対に、危険を顧みず動くべきです!」
覚悟を決めた、凛としたアヤメの言葉に、一同の空気が引き締まる。
承知しました、とロイは力強く頷き、真摯な敬意を込めて深く頭を下げた。
「お嬢様がそう決意されたのであれば、私は真の騎士として、必ずや貴方をお守りしましょう」
その時、会議室の扉が、乱暴な衝撃とともに蹴り開かれた。
「おい! お前たち! こそこそと集まって、何をやっているんだよっ!」
怒鳴り声とともに現れたのは、アヤメの弟であり、次期当主であるシオンだった。
吸血鬼を思わせる、不健康に青白い肌。
幼少期から邸宅に引きこもっているせいか、身体はぶくぶくと醜く肥え太っている。
着ている喪服は、溢れんばかりの贅肉に押し広げられ、今にも引き裂かれそうな悲鳴を上げている。
シオンは、ぜえぜえと肩で息をしながら、一枚の紙を握りしめていた。
「父上の遺言では、次の当主は僕なはずだ! それなのに、なんで僕を呼ばないんだよ! お前ら、結託して僕を除け者にするつもりか!」
シオンは激高しながら、手にしていた紙を振りかざす。そこで初めて、その紙がロジャーの遺言状であることに気がついた。
「……シオン、そんなに大声を出したら、また――」
「うるさい! 姉さんは黙っててよ!」
気遣わしげに声をかけたアヤメを、シオンは凶暴な眼差しで睨みつけ、怒鳴りつけた。
「姉さんに発言する権利なんてないんだ。当主は僕だぞ! 誰も僕に逆らえないんだ!」
その傲慢で聞く耳を持たない横暴な態度は、さすが親子というべきかロジャーを彷彿とさせた。
「確かに、ロジャー様は、シオン様を次期当主に指名されておりました」
この場でアヤメの次に、比較的シオンと近しいパーカーが、落ち着いた態度で言う。
「ですが、貴方はまだ王立学院を卒業されていません。いかに遺言があろうとも、今はまだ当主に就くことは叶わないのです」
「黙れ! 召使の分際で、僕に意見するな! クビにするぞ!」
シオンは老執事の目の前まで詰め寄り、汚らしく唾を飛ばす。
その姿は、玩具を買ってもらえず癇癪を起こす子供そのものだった。
病弱を理由に甘やかされ、これまできちんとした貴族としての教育を受けていないのは理解している。
だが、それを差し引いても、近くで喚き散らす男の醜態はあまりにも目に余る。これでは、ただの醜い豚だ。
「シオン、誰も貴方を除け者になどしていません」
アヤメは席を立ち、シオンの前まで歩み寄る。
「今、私たちは、貴方が正式な当主になるまでのことを話し合っていたのです。貴方は来年、王立学院に入学し、貴族としての義務や教養を学ばなければなりません。それは決して楽なことではありません。だからこそ、貴方には今、その準備に集中してほしかったのです」
「……じゃあ、僕を除け者にしてるわけじゃないんだね」
途端に声音が変わる。
先ほどまであんなに喚き散らかしていたのに、今度は幼児のように甘えた声を出した。
シオンは泥のように、実の姉の身体に縋りつき、その細い腰に抱き着く。
はい、と頷いたアヤメは微笑みを貼り付けたまま、脂っぽい弟の黒髪を優しく撫でた。
「当たり前です。貴方を除け者にするわけがありません」
「……でも、僕、学院なんて行きたくないよ。面倒だし、家から出たくない。何より、姉さんの傍を離れたくないんだ」
「何を言っているのですか!」
たまらずレントが声を上げた。
「ただでさえ病気を理由に、入学を1年も遅らせているのです! 王立学院に行かずして、どうやって当主になるおつもりか!」
「うるさい、黙れ! 今、誰がお前に発言を許した!」
姉との歪んだ世界を邪魔されたことに、腹を立てたシオンは、再び怒鳴り声を上げた。
「当主である僕が行きたくないと言っているんだ! 学院に行かず、当主になる方法を考えるのは、配下であるお前たちの仕事だろうが! 馬鹿かよ、お前!」
「な……っ」
レントはあまりの理不尽さに絶句し、口を開けたまま硬直する。
シオンは、それを言い負かした証だとでも思ったのか、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「いいか! お前らみたいな負け犬の存在価値は、僕らのために頭を働かせることだけだ! いい加減に理解しろよ! クソが! ――ねえ、そうだよね、姉さん?」
醜い豚は、黄色い歯を剥き出しにして笑いながら、アヤメの尻をねっとりと揉みしだいた。
「……やめなさい」
アヤメは消え入りそうな声を出す。
「えー、わかったよ」
シオンは不満そうに唇を尖らせながら、ようやく姉の身体から手を離した。
代わりに、彼女の白い頬へ、舐めずるようなねちっこい口づけを落とす。
そして、姉から離れると、満足そうに周囲を見渡した。
「いいか、お前たち! 僕は病気なんだ! だから、学院には絶対いかない! これからどうするかは、お前たちのその足りない頭で必死に考えておけ!」
吐き捨てるようにそう言い残し、シオンは会議室をのしのしと出て行った。
叩きつけられるように閉まった扉の音が、室内に虚しく響いた。
「…………」
残されたアヤメは俯き、肩を小刻みに震わせている。
頬を伝った涙を、誰にも見られないうちに袖で拭うと、ぱっと顔を上げ、無理に作った笑顔を見せた。
「さあ、話し合いを再開しましょう!」
努めて明るく振る舞おうとするその声は、少しだけ上擦っていた。




