4-5 ダリアの花言葉
喧騒から切り離された歓楽街の外れ。
ひっそりと佇むグレイッシュブルーの一軒家。
庭には黄金色の葉を広げた宿根草と、深紅や黄色のダリアが咲き誇り、心温まる色鮮やかなボーダーガーデンを形作っている。
真っ白な扉を、拳で四度、正確なリズムでノックする。
しばらくの静寂の後、内側から鍵の外れる音が響いて、扉が恐る恐る開き、小さな隙間を作った。
「……ア、アトラくん」
開いた隙間から、甘い香水の匂いが放たれる。
シルクのネグリジェを纏った妖艶な女が、華奢な白い肩を覗かせている。
顔を出したのは、亡き領主ロジャーの愛人、テスだった。
その瞳は、逃れられない運命を予感したように小さく揺れている。
「中にいるんだろう?」
開口一番、アトラは平坦な声で訊ねた。
「な、なんのこと……? 私は何も知らないわ」
テスの視線が激しく泳ぐ。
「いいから、邪魔するぜ」
「ちょっと、勝手に!」
彼女が拒絶の言葉を言い終えるより早く、アトラは躊躇いなく靴の先を扉の隙間に滑り込ませた。
そのまま力任せに押し入り、反射的に悲鳴を上げようとしたテスの口を、容赦なく左の掌で塞ぐ。
「シー……。騒ぐな。声を出せば殺す」
耳元で囁きながら、ズボンの後ろから拳銃を平然と抜き取る。
薄いシルク越しに、黒く冷たいサイレンサー付きの銃口を、テスの細い腰元へ深く突きつけた。
「さあ、グラントのとこに案内しろ」
アトラの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
その顔には、冷徹な愉悦が滲んでいた。
テスに前を歩かせて、窓から柔らかな陽射しが差し込む廊下を進む。
突き当たりの扉を静かに開けた。
そこは、小さな花瓶や猫のオブジェ、素朴な田舎の風景画、クマのぬいぐるみといった可愛らしい雑貨が整然と並ぶ、リビング・ダイニングだった。
温かな、ささやかな生活の匂いが残る部屋の空気をぶち壊すように、酒瓶の転がるダイニングテーブルに、一人の大柄な男が力なく突っ伏している。
扉の音に気づいてか、男はゆっくりと顔を上げた。
「……誰だった、テス? 出なくていいって言ったのに。――な……っ」
グラントの目が見開かれる。その顔から一瞬で酔いが吹き飛ぶ。
すぐに椅子を蹴立てて立ち上がろうと腰を浮かせるが――テスの腰に深く突きつけられた銃口を見た瞬間、その巨体は呪縛にかかったように硬直した。
「やっほー、元気だった? そのまま座ってていいよ」
アトラは久しぶりに再会した旧友にでも話しかけるような気軽な口調で言い、グラントの真向かいの椅子へと腰を下ろす。
そして、視線をグラントから外さぬまま、顎をしゃくって隣にテスを座らせた。
テーブルを挟み、冷え切った沈黙が部屋の空気を支配していく。
最初にその静寂を切り裂いたのは、やはりアトラだった。
「今、ロジャー様を殺したあんたを、クロム家の奴らが血眼になって探してるぜ」
「私は……私は、ロジャー様を殺してはいないッ!」
グラントは手元に転がっていた酒瓶をテーブルに叩きつけ、声を荒げた。
ガラスのぶつかる鈍い音が虚しく部屋に響き渡る。
「では、なぜ逃げた?」
アトラは眉一つ動かさない。
「そ、それは……」
「いつのまにか眠ってしまい、夜の記憶がまったく無い。自分の部屋から凶器も出て、下手な言い訳も通じない。だから、恐怖に駆られて逃げた。――そうだろ、隊長さん?」
「……あ、ああ」
グラントは自らの不甲斐なさを恥じ入るように顔を赤く染め、惨めに肩を落とした。
「あんたは、おかしいと思わなかったのか?」
「……何がだ?」
グラントは力なく顔を上げる。
「紅茶を飲んだあと、急に抗えないほどの眠気に襲われたことにだよ」
「どういうことだ……?」
グラントの顔が、疑念と底知れない恐怖で険しく歪んでいく。
「まだわからないのかよ」
アトラは可笑しくてたまらないといった様子で、クツクツと愉しげに肩を揺らした。
「俺が、あんたに睡眠薬を盛ったんだよ」
「――は?」
グラントは驚愕に身を震わせ、言葉を失ったように口をわなわなと動かす。
喉の奥から掠れた嗚咽のような吐息が漏れた。
「紅茶を運んでいたメイドにわざとぶつかり、その拍子に、スティックシュガーを自作の睡眠薬入りの物と入れ替えた。――メイドはいつも決まった時間に紅茶を運ぶ。そして、あんたはいつも決まって、紅茶にはミルク無しで砂糖だけを入れる。どうだ、凄いだろ? この完璧な観察眼」
アトラは、お気に入りの玩具を自慢する子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「それじゃあ……ま、まさか」
「ああ、そうだ」
アトラは身を乗り出す。
怯えきったグラントの目を真っすぐに見つめ、まるで愛の告白でもするような甘い声で囁いた。
「――ロジャーを殺したのは、俺だよ」
時が止まったかのような重い沈黙。
遠くから、正午を知らせる鐘の音が聞こえてくる。窓から差し込む柔らかな陽射しを、アトラは全身に浴びていた。
その姿は、神聖な天使にも、命を刈り取る死神にも見えた。
「嘘よ……」
隣でテスが震える声を漏らす。
「ロジャーを……あなたが?」
「そうだって、言ったろ?」
何度も言わせんなよ、とアトラは面倒くさそうに笑った。
「なんで……っ。どうして、そんなこと――」
「クロム家を乗っ取るためだ」
アトラは彼女の言葉を遮り、食い気味に答える。
あまりに平然としたその口調が、かえってその異常さを際立たせた。
「ふざけないで!」
テスは大声を出し、テーブルを激しく叩いて立ち上がった。
「騒ぐなって、言ったろ?」
アトラは退屈そうに椅子の背もたれに身体を預ける。
そして、少しの躊躇いもなく銃の引き金を引いた。
――パンッ、とサイレンサーに殺された、間の抜けた破裂音が部屋に響く。
その直後、白いマネキンが倒れるように、テスは声も上げずにその場に崩れ落ちた。
「あ、ああ、ああああ……っ!」
グラントは椅子から転げ落ちるように床を這い、テスのもとに近寄ろうとする。
「動くな」
アトラは表情を変えずに冷たく言い放った。
「安心しろ、殺しちゃいない。眠っただけだ。大人しく座れ」
「……え?」
グラントは恐る恐る、倒れたテスの身体を確かめる。
彼女が纏う真っ白なシルクのネグリジェは、一滴の血にも染まってはいなかった。
「麻酔銃だよ。まだあんたらを殺すつもりはない。さあ、椅子に座れ。話の続きをしよう。……嫌なら、次は殺す」
アトラは顎をしゃくり、向かいの椅子に戻れと促す。
グラントは覚束ない足に無理やり力を込め、這うようにして椅子にしがみついた。
「……なぜだ。……なぜ――」
「なぜ、あんたに罪を被せたのかって? なぜ、ロジャーを殺したのかって? それとも、なぜ、こんな非道なことをするのか知りたいのか?」
アトラはテーブルに両肘を置き、顔の前で指を組む。
「答えは全部一緒だよ。カミノを滅ぼした、アルトリア、グラキエ、ルセラの奴らは全員――王であろうと、権力者であろうと、強者だろうと、弱者だろうと、そう、誰であろうと、俺は殺したいほど恨み、憎んでいるからだ」
指の隙間から覗くアトラの両目は、完全な虚空だった。
何も映さず、何も感じさせない。底なしの暗闇がそこには広がっていた。
「……頼む」
グラントは絞り出すように懇願する。
「……テスだけでも見逃してくれ」
「なあ、あんた、聖書は読むか?」
「い、いや……」
グラントは小さく首を横に振る。
「こんな状況にぴったりな一節がある」
アトラは敬虔な信徒のように、静かに聖書の一節を諳んじ始める。
「――ミセラの黙示録第六章十五節。地上の王、高官、軍人、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に身を隠した。そして、山と岩とに向かって叫んだ。さあ我々を覆って、御座にいます冠の王の怒りから、我々をかくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでに来たのだ。誰が、その怒りから逃れ得ようか」
アトラはゆっくりと拳銃の銃口を、グラントの額へと向けた。
「俺の怒りからは逃げられない。ミセラは無に帰す。――これは、その始まりだ」
グラントは絶望に息を呑み、静かに目を閉じる。
アトラは再び、拳銃の引き金を引いた。
グラントは意識を失い、眠るように椅子の背もたれにもたれかかる。
アトラは役目を終えた拳銃をテーブルに捨て置くと、椅子から立ち上がった。
床に倒れているテスを優しく抱き上げて、慎重にグラントの隣の椅子に座らせる。
彼の肩に、そっとテスの頭を乗せてやる。
眠りながら、最後まで寄り添い合う二人。
アトラは愛おしそうに目を細めた。
「あんたらは幸せだよ。好きな人と一緒に死ねるんだから」
アトラはテーブルに置かれた酒瓶を無造作に掴むと、中のアルコールを床一面に撒き散らす。
さらに、ズボンのポケットからポップコーンを取り出すと、まるで二人を祝福するライスシャワーのように、ぱらぱらと周囲に撒いた。
もう、この場所でやり残したことは何もない。
アトラは静かに家を出る。
手向けの代わりに、庭に咲き誇るボーダーガーデンから、深紅のダリアを一輪、指先で折り取った。
「――ボンッ」
少年のような無邪気な口調で、そう口にする。
その瞬間、背後で激しい轟音とともに、一軒家が真っ赤な炎を上げて爆発した。
燃え盛る炎の熱風と火の粉を背中に浴びながら、アトラはただの一度も振り返ることなく、摘み取ったダリアの花を背後へ、ひらりと放り投げた。
「どうか、安らかに」
◇◆◇◆◇
ガチャン、と黒い公衆電話の受話器をフックへ戻す。
消防署への通報と、クロム家への報告は終えた。
今頃ようやく、あの家の火を消そうと、必死になって放水を始めた頃だろう。
――計画完了まで、あとわずか。
アトラは赤い電話ボックスの扉を押し開け、外のストリートへと一歩、踏み出す。
高く、澄み渡った秋の青空。からりと乾いた秋風が吹き抜ける。
その時、前方から一人の影がこちらへ真っすぐ歩み寄ってくるのが見えた。
「やあ、アトラ。――災難だったようだね」
気安い口調で話しかけてきたのは、腰に剣を佩いたロイだった。
クロム家へ一報を入れてから、ここへ来るまでの時間が、あまりにも早すぎる。
もしかして、最初から現場のすぐ近くにいたのか。
ああ、とアトラは神妙な面持ちを取り繕って、頷いてみせた。
「まさかグラントの奴……追い詰められた挙句、最後は家に火をつけて……無理心中を図るとはな」
「あの炎では」
ロイは肩を竦め、遠くに立ち上る黒煙を眺めながら言う。
「残念ながら、生存は難しいだろうね」
「……そうだな」
アトラは唇を噛み締め、やり切れない悔しさを滲ませた。
「……俺が……もっと早く駆けつけていれば」
「いい筋書きだね」
ロイがクスリと声を漏らして笑った。
「……え?」
アトラの芝居がかった表情が、ぴたりと不自然に固まる。
ロイは深く感心し、目の前の役者の名演を讃えるように、パチパチと拍手を鳴らした。
「いやぁ、実に素晴らしいシナリオだったよ。一人の女を巡って、傲慢な主人を衝動的に殺してしまった哀れな男。優秀な探偵に追い詰められて、最期は――絶望のあまり、家に火を放ち、愛する女と美しく心中。映画界なら、脚本賞でも狙えるんじゃないかな」
「……ロイ」
「ただ、強いて批判を挙げるなら、君は探偵役としては、いささか相応しくはなかった」
ロイはそう言って、躊躇うことなく一歩踏み込む。
その表情には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「君は、ミステリの十戒をご存じかな。――一つ、探偵自身が犯人であってはならない」
「……どういう意味だ?」
「言わないとわからないかい?」
その瞬間、アトラの双眸から一切の温度が消えた。
こいつはここで殺さないといけない。迷いはなかった。
アトラは咄嗟に右手の義手を突き出し、指で銃の形を作る。
だが、銃を撃つよりも早く、鋭い銀閃が空間を切り裂いた。
ロイが抜き放った剣の切っ先が、アトラの首元へぴたりと突きつけられている。
「これでチェックメイトかな、アトラ」
ロイははにかみ、どこまでも紳士的な笑みを浮かべる。
「――いや、カミノ王国第三王子、アシュラ・カミノと言った方が正しいかな?」




