4-3 ロジャー殺し
顔を真っ赤に上気させ、千鳥足で邸宅の廊下を歩く。
ロイは日課のように今晩も、同僚たちと遅くまで大人の社交場で呑み歩いていた。
邸宅に戻ってきた頃には、空はうっすらと白み始めており、時計の針は4時を回っていた。
――日付はとうに変わり、水曜日だ。
それにしても、今夜こそは、絶対に口説き落とせると思ったのに。
やはり、どさくさに紛れて腰へ手を回したのがまずかったのだろうか。
それとも、下着の色を聞いたのがいけなかったのか。
真の紳士としては、いやらしい気持ちなんて一切なかったのに。
「はあ……」
口から漏れ出たため息さえも、酷く酒臭い。
だが、ロイはすぐに頭を振って、気持ちを切り替える。
気にしたって始まらない。
反省なんていう殊勝な行為は、すべて明日の自分に丸投げしてしまおう。どうせ、明日は明日の恋が始まる。
ロイは自身にあてがわれた部屋に入ると、窮屈なシャツを乱暴に脱ぎ捨て、同居人を起こさないように、なるべく足音を立てずに奥へと進んだ。
同室のアトラは、隣のベッドでぐっすり眠っている。
枕元のサイドテーブルには、見慣れた薬ケースが出ている。
どうやら今夜も睡眠薬を呑んで早々に眠りについたらしい。
この薬を呑んだアトラは、翌朝にロイが力任せに揺り起こすまで、何があってもまず目を覚まさない。
毎朝起こす側としては、少々骨が折れるのだが、逆に言えば、どれほど音を立てて騒ごうが絶対に起きないので、毎晩酔っぱらって帰ってくる身としては有難かった。
ロイは着替えもそこそこにベッドへと倒れ込むと、そのまま眠りへと落ちていった。
RRRRR
『いやああっ――!』
今のは何だ。
……女性の叫び声?
眠りについたばかりだというのに、二日酔いの重い頭が無理やり叩き起こされた。
枕元の時計へと視線を走らせる。――午前6時4分。
ロイは頭を激しく振り、強引に意識をはっきりさせた。
さっきの悲鳴は、明らかに冗談や悪ふざけの類ではなかった。
騎士としての本能が、ぼんやりしている暇はないと告げている。
隣を見る。
アトラは睡眠薬の効果で、泥のように眠り続けている。
今、アトラを揺り起こす時間はない。
ロイは素早く衣服を掴み、袖を通しながら部屋を飛び出した。
悲鳴は真下から聞こえた。
おそらく1階にある書斎からだ。
ロイは階段を駆け下り、絨毯の敷かれた長い廊下を走る。途中で、同じく血相を変えた執事長のパーカーと鉢合わせた。
「聞きましたか?」
挨拶も抜きにロイが訊ねる。
「はい!」
パーカーは険しい顔で頷き、並走した。
「あれは、メイドのメリーの声です。急ぎましょう」
書斎へ辿り着く。
入り口前の廊下でメイドが腰を抜かしたままぺたりと床に座り込んでいた。
顔面は蒼白で、肩を小刻みに震わせている。ロイはすぐに近寄り、肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あれ……! だ、旦那様が……!」
メリーの震える指先が示す先を追って、開け放たれた書斎の奥へ目を向ける。
「な……っ」
ロイの思考が一瞬、凍りついた。
絶句とはまさにこのことだろう。
ロジャー子爵が、血だまりに顔を沈めたまま、うつ伏せになって倒れていた。
ロイはすぐにメリーから手を離し、ロジャーの傍らへと駆け寄って、その場にしゃがみ込んだ。躊躇いなく手を伸ばして、首筋の頸動脈に二本の指でそっと触れる。
数秒の静寂。
指先に伝わる拍動は、ただの一度もなかった。
「……死んでいますね」
「……そ、そんな、旦那様が……」
背後で立ち尽くす執事長の声が、恐怖で哀れに震えていた。
ロイは立ち上がり、振り返る。
「――とりあえず、秘書官長と警備隊長を呼んできてください」
「…………」
「早く。ぼーっとしてる暇はないですよ」
放心するパーカーに対し、ロイはあえて鋭い口調で言い放つ。
「は、はい! 承知しました、ロイ様……っ!」
弾かれたように我に返った執事長は、汗の滲んだ額を拭うと、ふらつく足取りで、急いでその場から立ち去った。
静まり返った血生臭い書斎で、ロイは改めて死体へ視線を落とす。
首の後ろには、正確に急所を貫いた刃物による刺傷があった。
目立った抵抗の跡や、他に外傷は見当たらない。これがおそらく致命傷になったのだろう。
死後硬直はすでに、末端の指先にまで達していた。
この硬直の度合いからして、少なくとも殺されてから6時間以上は経っているはずだ。
――一体、誰が領主を殺したのか。
その時、廊下の向こうから悲鳴のような情けない声が響いた。
「なんてことだ! 本当に……本当にロジャー様が……ッ!」
開け放たれた扉から、息を切らせた秘書官長のレントが勢いよく飛び込んでくる。
血だまりに沈む主人の凄惨な姿を見るなり、レントの顔からみるみる血の気が引いていく。
ふらふらと死体の前まで歩み寄ると、崩れ落ちるように膝をついた。
「なぜ、こんなことに……。ロジャー様は、何者かに殺されたのでしょうか」
「そうだと思います」
ロイは感情を排した声で、冷静に答える。
「後ろから首の急所を的確に刺されて死んでいます。自殺の可能性は万に一つもありえません」
ここでようやく、パーカーに連れられた警備隊長グラントが書斎に入ってきた。
普段なら髪一本、髭の剃り残し一つなく身だしなみを完璧に整えている男だが、今朝は執事長に叩き起こされたばかりなのだろう。
その顎には無精髭が不自然に目立っている。
「……どういうことだ。……一体、何が起きている」
グラントは血だまりのロジャーを見つめたまま、低い声で呟いた。
そして、ロイの傍まで歩み寄り、床にしゃがみ込むと、死体に向かって無造作に手を伸ばした。
「下手に動かさないでください」ロイはその手を掴んで、鋭い目で見据えて制する。
「死体の姿勢、周囲の血痕、着衣の乱れ。どれも犯行の態様を特定する重要な証拠になります」
「あ、ああ……すまない。その通りだな」
グラントはばつが悪そうに謝罪して立ち上がると、部屋の中を見回した。
「強盗か? それにしては、部屋は荒らされているように見えんが」
「そうですね」
ロイもまた、部屋の周囲へと目を向けた。
書斎には、29インチのテレビやオーディオシステム、パソコン、ショルダーホンといった最新機器が並んでいた。どれも高価な品だが、何ひとつ持ち去られた形跡はない。
そんな最新機器が並ぶ一角で、ふと、レトロな木製のキャビネットに目が留まった。
棚には高級な酒瓶がずらりと飾られている。その天板の上には、神埜酒のボトル、中の氷がすっかり溶けたアイスバケット、そして――グラスが2つ置かれている。
「ガチャ伯爵家の刺客に違いない! こんなことをするのは奴らしかいませんっ!」
レントが怒りと恐怖の入り混じった声で断言する。
だが、ロイは首を横に振った。
「いえ、秘書官長。それはわかりませんよ」
ロイはキャビネットの上にある2つのグラスに目を落とし、話を続ける。
「ロジャー様が倒れた位置からして、背後から無防備なところを刺されたのでしょう。状況を見るに、ちょうど酒を作っている最中だった。
――そして、用意されたグラスは二つ。いくらお優しいロジャー様でも、自分を殺しに来た刺客をわざわざ部屋に招き入れ、酒を振る舞ったりはしないはずです」
「では、誰が……? ――まさか! クロム家の人間が犯人とでも言うのですか!」
「おい」
そこで、グラントが遮るように重苦しい声を上げた。
彼は書斎の壁の一角を、険しい顔で指さしている。
「――ロジャー様の短剣が、無くなっているぞ」
「本当ですね」
以前、一度だけロイはこの書斎を訪れたことがある。
その時は確かに、壁には一振りの古風な短剣が飾られていた。
『この短剣で、カミノ人を四人も殺した』
ロジャーがそう誇らしげに語っていたので、よく覚えている。
「犯行には、その短剣を使ったのかもしれませんね」
「……あー、なんてことだ。なんでロジャー様は殺されたんだ」
レントは顔を覆い、声音に絶望を滲ませる。
「……領主不在で、クロム領はこれからどうなる」
ロイはそっと、取り乱して震えるレントの肩に手を置いた。
「秘書官長。……まずは落ち着いて、犯人を見つけましょう。凄惨な現場でしたのでここには呼びませんでしたが、お嬢様たちにも事態を報告したほうが良いかと」
「……そうですね。一度、会議室に全員を集めましょうか」
レントが今にも消え入るような声で言い、一同は重苦しい足取りで書斎を後にした。
ロイはこの時すでに、犯人はこの邸宅の中にいる、と半ば確信していた。




