4-2 ジンジャービア
――《BLUE CABARET》
無数のきらびやかな電飾で彩られた巨大な劇場。
その正面に掲げられた青いネオン看板は、《ハーツ》の夜の街を妖しく照らし出していた。
そこは、この街一番の青い宝石と呼ぶに相応しい最高級のキャバレー。
空間を満たすのは、濃厚な香水と煙草の紫煙が溶け合った、大人たちの匂い。
頭上には、重厚なシャンデリアが眩しく輝いている。
広々とした一階のホールには、贅を尽くして着飾った男女が溢れ返り、酒の入ったグラスを思い思いに揺らしている。
メインの舞台では、ジャズの旋律に合わせて、見事な羽飾りを大きく広げたドラァグクイーンが、観客たちを誘惑するように挑発的に踊り狂う。
完璧なキメポーズとともに演奏が締めくくられると、爆発的な歓声と拍手がホール全体を激しく揺らした。
時刻は、19時ちょうど。
本日非番のアトラは、2階席に置かれたベロアの青いソファに腰かけて、一人でどこか退屈そうにステージを眺めていた。
手元のグラスの中身は、すでに残り少なくなっている。
第2部のショーが始まるのは、今からおよそ20分後だ。
アトラはおかわりを注文しようと周囲を見渡し、ボーイを呼ぼうと軽く左手を挙げかけたところで、
「――楽しんでいますか? お客様」
と、不意に声をかけられた。
アトラは無表情のまま、そちらへと顔を向ける。
そこに立っていたのは、身体のラインをこれでもかと強調する、セクシーな白のドレスに身を包んだ、この上なく肉感的な大人の女性だった。
ブロンドの巻き毛。細い眉。真っ赤な唇。
そして目を引く、艶めかしい口元のほくろ。
胸元を大胆に露出したその衣装も相まって、普通の人間ならば、その豊満な身体つきに自然と目を奪われるはず。
女性はまさに、成熟した大人の退廃的な魅力に溢れていた。
2階席の金持ちたちが大いにざわめく。遠巻きに、こちらを窺う視線が集まっている。
だが、白いドレスの女性は、そんな視線などまるで気にするそぶりも見せずに、ただアトラの瞳を真っすぐに見つめながら、愛想よく小首を傾げた。
「おひとりかしら? ……隣、座ってもいい?」
「ご勝手に」
アトラがいつも通りのぶっきらぼうな口調で短く返すと、女性は色気を振り撒きながら、すぐ隣へと滑り込むように腰掛けた。
「何呑んでるの?」
「ジンジャービア」
「お酒は呑まないの?」
「まあ、あんまし好きじゃないし。それに一応、今日は非番だから」
「ふうん……」
女性がさらに距離を詰めてくる。
彼女の柔らかな肩が微かに触れ、鼻腔を圧するような高級ブランドの香水の匂いが、脳天を衝いてくる。
「なら、こんなところで遊んでていいのかな? 非番って、休日とは違うんでしょう?」
「これも仕事なんすよ。絶賛パトロール中。こう見えても夜の街の平和を守ってるんで」
「そっか。それはお疲れ様です。まあ、私には遊んでるようにしか見えないけどね」
女性はにこっと艶っぽく微笑んで、こちらの顔を覗き込むように極端に顔を寄せてくる。
だが、アトラは、その強烈な視線を受け流し、グラスの中身を飲み干した。
「そっちこそ、こんなところで遊んでていいんすか? ――テスさん。あんた、この店のトップスターでしょう? ステージの準備はしなくていいの?」
「大丈夫よ。今夜の私のショーは3部だけだから」
さらりとそう答えたテスは、なーんだ、と残念そうに細い眉を下げた。
「君、私のこと知ってたんだね。つまらないの」
「そりゃもちろん」
アトラは一度テスから視線を外し、ホールへと目を向ける。
すいません、と空いた左手を軽く上げ、今度こそ通りかかったボーイを呼び止めた。
すぐに黒服の男が近づいてくる。
店の看板であるテスの姿を認識した瞬間、ぎょっとした表情を浮かべる。
だが、そこは高級店のプロ、即座に何事もなかったように営業用のポーカーフェイスを取り繕った。
「いかがなさいましたでしょうか、お客様」
「おかわりを」
空のグラスをボーイに渡して、アトラはちらりと横目で隣の美女を見た。
「何か呑みます?」
「シャンパン」
「ジンジャービアを二つください」
「あら」
テスは意地悪そうな声を出す。
「私もずいぶん安く見られたものね」
「息子くらいの年齢のガキに、そんなもん奢らせようとすんなよ」
「年齢のこと言うなんて、ひどい男」
すぐに、ジンジャービアが注がれた二つのグラスがトレイで運ばれてきた。
アトラはそれを自分の手で受け取ると、乾杯の仕草すら省略して無造作にグラスに口をつける。
テスはその様子を、どこか微笑ましそうに眺めながら、クスッと声を立てて笑った。
普段、男たちから花よ蝶よと丁重に扱われている彼女にとって、アトラの決して媚びないその不遜な態度は、かえって新鮮で刺激的に映ったのかもしれない。
「ねえ、君はなんで私のこと知ってくれてたの?」
「この街の人間なら、大抵はあんたのことを知ってると思いますよ」
「それは、ダンサーとして?」
「――もちろん、領主の愛人として」
このキャバレーの2階席。
――通称VIP席に足を踏み入れることができるのは、ハーツの街でも一握り。貴族か実業家、あるいはその関係者くらいのものだ。
そして、その特等席をそれこそ毎晩のように利用し、湯水のように金を落としているのが、この街の領主であるロジャー・クロムその人だった。
彼が毎夜、一体誰を目当てにこの店へ通い詰めているのか。
そんなこと、この街の人間なら誰でも知っている公然の秘密。
もはや、この豪華な店自体、ロジャーがお気に入りの愛人のために建ててやった代物である。そう言っても、決して過言ではなかった。
「私も、あなたのことは、知ってるわよ」
テスの視線が、アトラの無骨な義手へと向けられている。
「あなた、アヤメちゃんの新しい護衛になった子でしょう?」
「……アヤメちゃん、って」
アトラは咎めるような口調で言う。
「子爵令嬢だぞ」
「いいじゃない。私からしてみれば、あの子は娘みたいなものよ。……まあ、ずいぶんと嫌われてはいるけどね」
テスはそう言って、自嘲的な笑みを浮かべる。
マニキュアが塗られた爪で、こつん、こつんとテーブルを叩いた。
「……ねえ、アトラくん、煙草持ってない?」
「いや」
「そう。案外、まじめなのね」
テスは小さくため息をつき、手元のジンジャービアにそっと口をつけた。
アトラはソファの上で僅かに尻をずらし、テスとの間に明確な境界線を引くように少し距離を取る。
「なあ」と真面目な視線を彼女の横顔へと向けた。
「テスさんは、俺のことを領主から聞いたの?」
ええ、とテスは頷く。
「あとは……トムからも聞いたわ。生意気な部下ができたって」
「トム?」
「トム・グラント。あなたの上司の警備隊長さんよ」
名前知らなかったの? とテスは可笑しそうに笑う。
うん、とアトラは短く頷いた。
「あの警備隊長とも、仲いいんすか?」
「まあ……少しね」
テスの完璧な大人の微笑みがほんの一瞬だけ、ガラスに罅が入るように歪み、その表情が微かに翳った。
アトラの双眸は、彼女のその僅かな動揺を、決して見逃さなかった。
「なるほど。じゃあ、あの人は……毎週水曜日に、あんたに会いに出かけてたんだな」
「え……?」
「知ってます? うちの上司、なぜか毎週水曜日の夜は、決まって屋敷に帰ってこないんですよ」
「へえ、そうなんだ」
テスは動揺を押し殺し、平静を装うように再びグラスに口をつけた。
「そういえば、この店、確か、水曜日が定休日じゃなかったっけ?」
「定休日は、水曜日と日曜日よ」
そう答えたテスは感情を隠すように、指先でグラスの縁をゆっくりとなぞった。
「……坊やには、まだわからないと思うけど。……大人の男と女の間には、色々と複雑な事情があるものなのよ」
「たとえば、どんな?」
アトラがさらに踏み込んで訊ねても、テスはその問いにだけは答えようとしなかった。
ただ、酷く困ったように小さく笑って、祈るような、懇願にも似た低い声で、ぽつりと呟いた。
「……あんまり、トムのことを嫌わないであげてね」
「どういう意味?」
「あなたとトムが上手くいっていないことは、彼からよく聞かされているから知ってるわ。……それでも、彼のことを、ただの嫌な奴だと切り捨てないでほしいの」
彼女はそこで一度言葉を切り、グラスから滴る水滴をじっと見つめ、話を続ける。
「……あの人は、昔から心が弱くて、とても繊細な人だった。……そして、あのカミノ戦争から帰ってきてからは、それがより顕著になってしまった。……だから、誰かが傍で、支えてあげないといけないの」
テスの口調は、まるで自分自身に言い訳を繰り返しているかのようだった。
なんて退屈なのだろうか。
同情心など、アトラは持ち合わせていない。
ましてや、こんな浮気女の言い訳など、今の彼にとっては、ただのどうでもいい情報に過ぎなかった。
アトラは無言のまま、ベロアのソファから音もなく席を立った。
「……もう、帰るの?」
「言っただろ? 遊びで来てるわけじゃないって」
「……そっか」
テスは、まるで行き場をなくした子供のような、寂しそうな顔でアトラを見上げた。
アトラは、自分のグラスを持ち上げる。
そして、テーブルに残されたテスのグラスに、こつんとぶつけると、中身のジンジャービアを一気に喉の奥へと流し込んだ。
「さて。帰って、上司と少しお話しでもしてみるかね」
「え……?」
アトラは不敵に笑い、歩き出す。
振り返ることはない。
腕時計へ目を落とすと、時刻は19時20分。
劇場のブザーが鳴り響き、煌びやかな幕が上がる。
――第2部のショーが始まった。
◇◆◇◆◇
時計の針が示す時刻は、すでに21時を回っていた。
邸宅に帰るなり、玄関先でロイから、「ロジャー様が呼んでいる」という伝言を受け取ったアトラは、一度自室に戻り、必要な道具を準備してから、急いで書斎へと向かった。
そして、全ての用事を済ませ、書斎を出た頃には、こんな時間になっていた。
やはり気が重い。
アトラは工具箱を脇に抱えたまま、警備隊長グラントの部屋へ赴く。
一体、どうなることやら。
そんな考えごとをしていたせいでもないのだが、廊下の角を曲がったところで、向こうから歩いてきたメイドと危うく正面衝突しそうになり、お互いにすれ違いざまに軽く肩をぶつけてしまった。
「きゃっ!」
「あ、ごめん。大丈夫、メリーさん?」
「は、はい」
声をかけられたメイドは、慌てて手に持っていた銀のトレイに視線を落とす。
幸い、トレイの上のティーカップに注がれた紅茶は一滴も零れていない。
ただ、脇に添えられたスティックシュガーが一本、リノリウムの床へと静かに落ちただけだった。
ホッと胸を撫で下ろす彼女に、「悪い。ぼぉーっとしてた」と素直に非を認めて謝る。
アトラは脇に抱えていた工具箱を一度床へと下ろし、屈もうとしたメイドよりも早くしゃがみ込んで、床に落ちたスティックシュガーを拾い上げた。
そして、それをそのまま自分のズボンの左ポケットへ突っ込む。
「もしかして、その紅茶、警備隊長の部屋に運んでるとこだった?」
「ええ、そうです……」
メリーは少し驚いたように瞬きをした。
「よくわかりましたね」
「この屋敷で、ミルク無しで砂糖だけ入れて紅茶を飲むのは、あの人ぐらいだからな」
「さすがはアトラ様ですね」
メリーは心底感心したように言い、おっとりとした笑みを浮かべる。
「いつも周りのことをよく見ていらっしゃる。それだけの気配りができるのでしたら、アトラ様はきっと、この家でも優秀なメイドになれますよ」
「はあ? なんでメイドなんだよ」
「だって、アトラ様、メイド服がお好きなんでしょう?」
「おいっ……! ……それ、誰から聞いたッ?」
「ふふっ。それはメイドの秘密です」
メリーは楽しそうに目を細めて、口元を隠しながら、からかうように笑い出す。
「……チッ。……まあ、俺の性癖知ってんのは、あのクソ野郎しかいないんだけど」
肩を竦めたアトラは、ズボンの右ポケットからスティックシュガーを取り出し、彼女の持つトレイの隅へそっと戻した。床に下ろしていた工具箱を脇に抱え直す。
「――あ、そうだ。あのさ、メリーさん。今から、警備隊長のところに行くなら、ついでに伝言、頼まれてくんない?」
「伝言? グラント様にですか?」
「そう。ロジャー様が、あとで書斎に顔を出せってさ。何やら大事な話があるらしい」
「かしこまりました。お伝えします」
「ああ、でも、そこまで急ぎではないらしいから。……ロジャー様、一旦、話を少し整理したいとも言ってたし。――だから、その紅茶をゆっくり飲み終わってからでも平気だと思う。一応、それも合わせて伝えといて」
「はい、そちらもお伝えします」
「あ、あと――」
アトラはふと思い出したかのようなそぶりで、言葉を続ける。
「警備隊長以外、今夜は誰も書斎に近づくなってさ」
「はあ……。そうなんですね」
「ロジャー様、なんか妙にピリピリしてたぞ」
「……へえ、珍しいですね。一体、何があったんでしょう?」
「さあね。――そんなわけだから、悪いけど、他の人たちにも伝えといてくんない?」
「承知しました。……とはいえ、普段からロジャー様に直々に呼び出された時以外、誰も書斎には近づきませんけどね」
「まあ、そうだけどさ。……一応ね」
「はい、かしこまりました。皆様にお伝えしておきます」
おやすみなさいと挨拶を交わして、メイドと別れる。
緊張感から解放されてか、どっと疲れが押し寄せてきた。
アトラは自室へ戻ると、睡眠薬を出し、目覚ましをセットしてから、そのままベッドへ倒れ込んだ。




