3-3 エルラの憂鬱
「……あのクソ伯爵が、こんな時間に呼び出しやがって」
エルラは、車のハンドルを握りしめながら、忌々しげに舌打ちをした。
レストラン《レッドブリック》を出た後、傷の手当てをしている最中に、一応の雇い主である『ガチャ伯爵』から直々に呼び出しがかかった。
場所は、ここから境界線を越えた先にある、ガチャ領のナイトクラブ。
自慢のイエローのピックアップトラックのアクセルを踏み込み、夜の峠道を荒々しく飛ばしていく。
ガチャ領に入った頃には、23時を大きく回り、日付が変わろうとしていた。
ネオンサインで溢れ返った歓楽街を、エルラは進んで行き、両腕で胸を隠した女のイラストが描かれた下品な看板を探し、見つける。
店の外には、真夜中だというのに若者たちの長い行列ができている。
路肩に車を停めると、店の前で待機していた黒服のボーイが慌てて駆け寄ってきた。
「お待ちしておりました。エルラ様。伯爵がお待ちです」
「どこにいる?」
「地下のバスルームに」
エルラは、黒服に刀と車のキーを預けると、頭を下げる屈強なセキュリティたちの間を抜けて、重い防音扉の奥へと進む。
中は喧騒の坩堝と化していた。
激しい音楽が耳を劈く。スモークが充満し、極彩色のレーザー照明が、踊り狂うマヌケな若者たちを切り裂いている。
汗と酒の臭いが立ち込めている。
人混みをかき分ける。
絡んでくるナンパ野郎たちには、無言で中指を立てて、バーカウンターへ近づく。
まずは、呑まなきゃやってられない。
テキーラをショットで三杯、立て続けに呷ってから、エルラは地下にあるバスルームに向かった。
「やあやあ、エルラちゃん! やっと来たね!」
湯気の立ち昇る広大なジャグジーの中、シャンパングラスを片手に、水着の女たちと淫らに戯れている髭面の男――この男こそが、この領地の絶対の権力者であり、今回の雇い主であるガチャ伯爵だった。
「……クソ野郎、何の用だよ?」
やはり、この男には嫌悪しか抱けない。
許されるなら、今すぐ首を刎ねてやりたい。
組織から下された重要な任務のためとはいえ、こんな下衆野郎の下につくのは、正直、一秒たりとも我慢ならなかった。
「てめえ、誰に口を利いてんだ……ッ!」
伯爵の傍らに控えていた部下の一人が、エルラに銃を向ける。
「黙れ、三下。殺すぞ」
エルラは眉一つ動かさず、その男を冷酷な眼光で睨み返した。
暗殺者の本気の殺気に気圧され、銃を持った男の手が微かに震える。
「まあまあ、落ち着いて。お前も銃を下げろ。せっかくの綺麗なバスルームで、悪趣味なスプラッタショーなんて望んでいないぞ」
伯爵は、「ね、そうだよね~?」と水着の女の胸を揉み、甘えた声を出す。
「エルラちゃんも、とりあえず一杯飲みなよ。シャンパンは好きだろう?」
そう言いながら、伯爵はのそりとジャグジーから上がり、バスローブを羽織る。
ソファに座って足を組むと、向かいの席にシャンパングラスを用意させた。
チッ、と小さく舌打ちしたエルラは、勧められた席に着くことはせず、立ったままそのグラスをひったくるように掴んだ。
そして、当てつけのように、伯爵の前でシャンパンを喉の奥へと一気に流し込んだ。
ドンッ、とグラスを乱暴に置く。
口元を手の甲で拭い、鋭い目つきで伯爵を見据える。
「……さっさと用件を言え。うちの連中に領主の仕事を丸投げしてる、あんたと違って、こっちは暇じゃないんだ」
「あーあ。せっかく高いシャンパンを用意したのに。乾杯くらいしてくれてもいいじゃないか。まったく、つれないねー」
芝居がかった調子で深く嘆いてみせた伯爵は、次の瞬間、冷徹な目で周囲の部下たちに視線を送り、やれ、と顎を小さくしゃくる。
その合図とともに、部屋の隅に控えていた男たちが、銃を取り出し、一斉にエルラを取り囲んだ。
「……なんの真似だ?」
エルラはピクリと片眉を吊り上げ、周囲の銃口を一瞥する。
わかっているだろ、と伯爵は下卑た笑みをその醜い顔に浮かべた。
「勝手に計画を変えた挙句……アヤメ嬢の誘拐に失敗したらしいじゃないか」
「……邪魔が入ったんだよ」
「ははっ! あの泣く子も黙るセラフィムともあろうものが言い訳かい? ダサいね~」
伯爵が小馬鹿にするように言い放つと、彼の両脇に座る女たちが媚びるように、「ダサーい!」「言い訳、きもーい!」と囃し立て、周囲の部下たちが一斉に嘲笑を漏らす。
「元の計画通りなら、私の部下は死んでいなかっただろうし、今頃、アヤメ嬢の処女をもらっていたはずなんだけどねえ」
「……だったら、なんだ? その責任を取れとでも?」
「その通り!」と伯爵は楽しげに手を叩いた。
「やっぱりさ、失敗したなら、それ相応の責任を取ってもらわないと」
「……なにすりゃいいんだよ?」
「んー、そうだなー」
下卑た笑みを浮かべ、これでもかと顔を歪める伯爵。
ソファに深く腰を預け、ねっとりと舐め回すようにエルラを見つめる。
粘りつく視線が肌の上を這い、ゾワリと全身に鳥肌が立つのを感じる。
このクズ野郎の考えることだ、次にどんな言葉が飛び出してくるか、なんとなく想像はついていた。
よし、そうだ、と伯爵は思いついたように指をパチンと鳴らす。
「ストリップショーでもやってもらおうか。私は寛大だからね、それで許してやるよ」
予想通りの下劣な答えに、エルラは胃の奥から反吐が出そうだった。
「あんた……あたしのこと、舐めてんの?」
「舐めてるのはどっちだよ」
それまでの軽薄な笑みが、一瞬にして伯爵の顔から消え失せた。
「いいから、さっさと脱げよ、このビッチが!」
伯爵は、テーブルに拳を思い切り叩きつけ、額に血管を浮かべて怒声を張り上げる。
手元にあったグラスを掴むと、バシャッ、と中身をエルラの顔へと浴びせた。
「私は伯爵だ! 権力者だ! 薄汚い犯罪者の分際で、私と対等になったつもりかっ! ふざけるな! 貴様程度、その気になればいつでも殺せる!」
背後にいた部下の一人が前へ出る。
冷たい銃口が、エルラの後頭部に押し付けられた。
「チッ。……わあーったよ。脱げばいいんだろ、変態野郎」
エルラは観念したように両手を上げると、着ていたジャージのジッパーに指をかけた。
ゆっくりと、じらせるようにジッパーを下ろしていく。
銃を持った男は三人。
刀は入り口で預けた。今は完全に丸腰だ。
エルラは淡々とジャージを脱ぎ、靴を脱ぎ、ズボンを脱ぎ捨て――下着姿になる。
鍛え上げられたしなやかな肢体が、バスルームの湯気の中で露わになった。
次は、靴下。
エルラが前屈みになり、床へ向かって深く腰を落とした時、下着の隙間から豊かな胸元が覗いた。
ガチャ伯爵は股間を不自然に膨らませ、下品にごくりと息を呑む。
――その、一瞬の隙だった。
腰を落とした姿勢のまま、エルラは床に脱ぎ捨てていたジャージとズボンを両手で素早く掴むと、左右の男たちの顔面へと同時に投げつける。
「うおっ⁉」
突然、視界を衣服で塞がれ、男たちが慌てて銃口を泳がせる。
そのコンマ数秒の間に、エルラは瞬時に真後ろへと振り向き、後頭部に銃を突き付けていた男の股間を、右脚で容赦なく蹴り上げた。
グシャッ、という最悪の破壊音。
男が目を血走らせて崩れ落ちる。
エルラはその男の手から銃を奪うと、そのまま素早く撃鉄を起こし、銃口をガチャ伯爵の額へと向けた。
「――形勢逆転だな。ストリップはもういいだろ?」
髪から滴るシャンパンが首筋へと流れる。
エルラは下着姿のまま、妖艶に笑う。
「……ま、待て待て! 落ち着けって! 話し合おうじゃないか!」
伯爵はソファに背を張り付かせ、引き攣った笑みを浮かべながら両手を上げる。
「伯爵から……伯爵から、その銃を下ろせ!」
衣服を投げつけられた左右の部下たちが、慌てて視界を確保して、銃口をこちらへと向け直した。その間にも、金的をモロに食らった一人は、床に転がったまま白目を剥いて泡を吹いている。
「お前らが先に銃を下ろせ。じゃないとこのクズの脳天を撃ち抜くよ」
エルラは下着姿のまま悠然と歩みを進め、銃口をガチャ伯爵の額へと深く押し付けた。
「早く部下たちに、銃を下ろすように言いな。あたしの引き金は……そこにいるビッチ共の股より軽い」
「……ッ、わ、わかった! お前たち、銃を下ろせ! 早くしろッ!」
伯爵が命令を下し、部下たちが狼狽しながら銃口を下げた――まさに、その瞬間。
エルラは流れるような銃さばきで、左右の男たちの脚を正確に撃ち抜いた。
銃声が鳴る。
肉と骨が砕ける。悲鳴がバスルームに反響する。
「な、な、な、なにをっ⁉」
いきなりの出来事に、目を白黒させている伯爵の胸倉を、エルラは片手で乱暴に掴み上げる。
そのままソファから引きずり下ろし、大理石の床へと容赦なく叩きつけた。
「うぐっ……」
伯爵は短い呻き声を上げ、仰向けに転がる。
「……てめえは調子に乗りすぎた。父親のように殺してやろうか? あァ?」
エルラは伯爵の丸々と太った腹の上にどかりと跨り、その薄汚い口の中に、硝煙の臭い立つ銃口を無理やり深くねじ込んだ。
「ごふっ、お、ゲホッ……!」
「てめえの父親や邪魔くさかった兄貴を殺してやったのは一体、誰だ? 一体、誰のおかげで、てめえみたいな無能が当主の椅子に座れてる? 一体、誰が、てめえのクソみたいな領地を発展させてやってると思ってる? ……自分じゃ何も出来ねえクソ虫のくせに、あんまイキってると、まじで殺すぞ?」
口の奥に銃を突き立てられた伯爵は、まともな言葉を発することができない。
ただ、恐怖と苦しさのあまり涙をボロボロと流しながら、必死に、狂ったように首を横に振り続けることしかできなかった。
エルラの目には、その姿はもはや許しを乞う哀れな豚にしか見えなかった。
「残念だったな。泣き喚いても……お前はここでぶっ殺してやるよ、豚野郎」
「――エルラ。そこまでだ」
唐突に、背後から冷徹な声が割って入った。
エルラは振り返る。
いつのまにか地上へ続く階段の前に、仕立てのいい高級スーツを着こなした黒人の男が立っている。
「……ジュールス」
エルラの口から、微かな緊張を孕んだ声が漏れる。
「立て、エルラ。服を着ろ」
「ふざけんなっ! あたしはこいつを――」
「二度は言わない」
黒人の男――ジュールスは、有無を言わせぬ絶対的な声音で言う。さすがのエルラも、それ以上の言葉を続けることはできなかった。
チッ、と激しく舌打ちしながら、エルラは伯爵の腹の上から立ち上がる。
組織の上司であるこの男の命令だけは、逆らうわけにはいかない。
いらついた態度を隠そうともせず、床に投げ捨てていた自身のジャージを乱暴に拾い上げ、手早く袖を通した。
「帰るぞ」
「……わかってるよ」
エルラが階段の手すりに手をかけたところで、ようやく死の恐怖から解放されたガチャ伯爵が立ち上がり、恨み骨髄といった顔で、「待て……ッ!」と叫んだ。
「ふざけるなよ……ッ! ここまでコケにされて、このまま帰すわけがないだろうが!」
「……部下の非礼については、謝罪する」
ジュールスは足を止め、振り返ると、事務的に淡々と頭を下げる。
しかし、その落ち着き払った態度が、かえって伯爵の怒りに油を注いだ。
「舐めやがって! 人殺しのクズ集団がっ! お前らとはここで手を切らせてもらう!」
「それは困る」
ジュールスは少しも困っていない口ぶりで言って、懐から拳銃を取り出す。
そのまま伯爵の顔に向けて、迷いなく引き金を引いた。
銃声が地下室に響き渡る。
「ひぃいっ――‼」と悲鳴を上げ、伯爵は尻もちをつく。
放たれた鉛の弾丸は伯爵の頬を掠めて、背後の棚に並んでいたシャンパンボトルを派手に撃ち抜いた。
ガラスの破片と泡立つ液体が、床へと激しく降り注ぐ。
「どうだ、伯爵。考えを改めてくれたかな?」ジュールスは至極冷静に言い放つ。
「できればさっきの発言は、たちの悪い冗談だったと言ってほしいのだが」
伯爵の顔は、これでもかと引き攣っていた。
「……じょ、冗談、だった」
そう消え入るように伯爵が呟き、ジュールスは、「そうか。それはよかった」と無感情に返す。
「では、これからもよろしく頼むよ」
ジュールスは軽く一礼すると、銃を懐へ納め、階段を上って扉から出ていく。
エルラは不満げな顔をしたまま、駆け足で上司の背中を追って、地下室を後にした。
店の外に出る。
夜の冷たい空気が、酒で火照ったエルラの肌を叩いた。
「あたし、自分の車で来てるんだけど」
「酒を呑んだんだろう。なら、車は置いていけ」
「少し呑んだだけだ。大丈夫だよ」
「だめだ。飲酒運転は、法律違反だ」
「……はあ? さっき、人を銃で脅した奴が、よく言うよ」
ぶつぶつと愚痴を零しながらも、エルラはジュールスの車の助手席へと乗り込む。
欲望が渦巻くネオン街を、ベージュのコンパクトカーが走り出す。
さっきまで喧騒の中にいたせいか、車の中がいつも以上に静かに感じられた。
「骨が折れているなら、酒は呑むな」
「……また説教かよ。べつに大したことない」
「クロム領のレストランで、お前を邪魔した男は、そんなに強敵だったのか?」
「だから、べつに大したことないって言ってるだろ」
「大したことない相手に、お前はやられたのか?」
淡々とした問い詰めに、エルラは面白くなさそうに窓の外へと顔を向けた。
「……やられてないし。ただ……あいつが、おかしな武器を使うから、少し戸惑っただけだ。あんたに、電話で止められなきゃ、間違いなく殺してた」
「どのみち時間切れだった。あんだけ派手に暴れていれば、数分と経たずクロム家の兵隊どもに包囲されていた。そして、お前は今頃、地下牢の中だ」
前方の信号が赤へと変わる。
車は滑らかに減速し、停止線の手前で止まった。
せっかくパワフルなV8エンジンを積んでいるのだから、もっとアクセルを踏み込んで飛ばせばいいのにと、エルラはこの助手席に座るたびにいつも思う。
――ジュールスという男は、本当に変わっている。
組織の命令とあれば平気で人を殺すくせに、こうしてハンドルを握れば、信号は絶対に守るし、速度違反もしない。
飲酒運転など論外だ。
ふと、ハンドルを握る彼の左手の甲に視線を落とす。
そこには、神から祝福として、『正義の権能』を与えられた証である、『天秤の刻印』が刻まれている。
狂気的なまでに規則を重んじるこの男には、これ以上ないほどぴったりな刻印だった。
椅子の背もたれを倒して、ダッシュボードの上に無造作に足を乗せる。
スイッチを押して窓を全開にする。冷たい夜風に吹かれながら、気怠そうにエルラは訊ねる。
「……そもそもさ、ボスはなんで、あの義手野郎が店にいることを知ってたんだよ?」
「さあな」
ジュールスは前を向いたまま、感情の起伏のない声で答える。
「私に命じられていたのは、二つだけ。
一つは、二十時までにお前が子爵令嬢を連れてこられなかった場合、撤収命令を店の電話にかけること。もう一つが、もしお前が、アトラという男と交戦していた場合、即座に手を引くように伝えること。これだけだ」
「は? ……ちょっと待て」
エルラは足を下ろし、椅子の背もたれから身体を起こして、ジュールスに顔を向ける。
信号は青になり、車は再び進み出した。
「……命じられていたって、どういうことだよ? 最初から、そういう命令があったってこと?」
「ああ、そうだ」
あっさりとジュールスは首肯した。
「ボスはお前が失敗することすら、見越してたらしい。あの方は、未来を見通すからな」
「なんでだよっ!」
エルラの口調が思わず荒くなる。
それが、単なる八つ当たりだということは、エルラ自身が一番よくわかっていた。
それでも、声を荒げずにはいられなかった。
「なんでそれを、事前にあたしに教えてくれなかったんだよっ!
あの義手野郎がいることが最初からわかってりゃ、あたしだって油断しなかった!」
「甘えるな、エルラ」
ジュールスの声は低く、やけに冷たかった。
「まだ、わからないのか?」
「……何が?」
「お前は、あの方に試されていたんだ。――そして、結果は失敗だ」
「……ッ、そんなこと、わかってる!」
「いや、わかっていない」
ジュールスは静かに叱りつけるように言った。
「セラフィムがどういう組織であるかを、お前は全くわかっていない。
――セラフィムは、裏路地ギャングや、宝石強盗とは根本的に違う。腐りきったこの世界を根底から覆し、世界を正しく導くために存在する、正義の組織だ」
「世界を正しく導くねえ」
エルラは鼻で笑う。
「そこだけ聞けば、まるで頭のおかしい新興宗教の団体だな」
車内の空気が完全に静まり返った。
ジュールスの黒い双眸が、冷たく細められた。
エルラは僅かに気圧されながらも、虚勢を張るように肩を竦めてみせる。
「……笑えよ。冗談だっての」
「笑えん」
「ああ、そうかよ。……でもさ、世間一般じゃ、あたしら、ただの人殺し集団だよ」
「殺しは、目的を達成するための、あくまで一つの手段に過ぎない。腐った世界を作り直すには、血が必要な時もある。私たちの行いは、すべてにおいて高潔だ」
「高潔? ……なんだよ、それ。……だったら、なぜボスは顔を隠す? なんであたしたちにさえ、一度だって姿を見せない? 世界を導く高潔なお方だって言うなら、堂々としてればいいだろ」
フリーの殺し屋として裏社会で名を馳せ始めた頃、エルラはある暗殺の仕事を請け負ったことがきっかけで、このジュールスという男と出会った。
そして、そこで彼に見出され、直接誘いを受けたことで、セラフィムへと足を踏み入れた。
もっとも、エルラは一員となってから、まだ半年と日が浅く、様々な任務を経て、ようやく下っ端扱いを抜け始めた程度に過ぎない。
――アルトリア王国での『モルドレット公爵暗殺事件』。
――ルセラ神聖国での『シュミット枢機卿暗殺未遂事件』。
――グラキエ帝国での『軍事基地襲撃事件』。
僅か一年の間に引き起こされた、この三つの大事件によって、一躍その悪名を轟かせたセラフィム。
だが、組織の一員になってみてもなお、その全貌は未だ知らないことだらけだ。
特に、最高権力者である『ボス』の正体については、異様なほど情報が伏せられている。
顔も、名前も、年齢すら一切不明。――最高幹部であるジュールスたち以外は、誰も知ることはできなかった。
「ボスの正体が知りたいか?」
「当たり前だろ」
「それなら、成果を出し、ボスの信頼を勝ち取れるように努力しろ」
「……努力、ね。そんなクソみたいな言葉、久しぶりに聞いたよ。……あたしの嫌いな言葉の一つだ。
……反吐が出る」
そこで会話が途切れ、重苦しい沈黙が流れた。
ジュールスから放たれる無言の圧力が、まるで自分の心の裡をすべて見透かされているようで、エルラは居心地の悪さを感じる。
「あまり私に恥をかかせるなよ、エルラ」
カチカチッ、とウィンカーの規則的な音が刻まれ、車が滑らかに右折する。
ジュールスが前を向いたまま、淡々と言った。
「お前は権能持ちで、戦闘能力も極めて高い。だからこそ、私はお前を拾い、組織へと推薦した。……だが、次はない。そのことを改めて胸に刻め」
「……わかってるよ」
エルラはそれ以上、言葉を発しなかった。不機嫌に窓の外の景色へと視線を投げる。
流れていくネオンを見つめる彼女の脳裏に浮かぶのは、あの義手の男の顔だった。
――次は殺す。今度こそ、必ず。




